学習とは

「学習」とは、

広辞苑に、学習は「学修」と同じ意味と解釈されています。学修とは、学んだことを修得することです。それには、学んだことは、すぐ実行して身に修める努力が必要です。多くの道理を知っても、実行しなければ何の役にもたちません。

 例えば、児童が学校から帰ると、習ったことを「復習」します。それは、学んだことを確かなものにするために、再度、繰り返して深く智識を修めようとするものです。復習をした後には「予習」ということを実施します。社会でいえば、一日の終りには明日への計画の準備や見直しをすることであります。

この「復習」(今日一日の出来事をまとめて整理する)「予習」(明日に実行する問題を確認し整頓する)を必ず毎日実施することが学習(学修)の大事なポイントであります。 さらに、この「復習」と「予習」の行動を持続させて、それが習慣化されていますか、が、大事なポイントとなります。

最も優れている学修能力というのは、復習と予習が毎日の習慣になっていることであります。学生時代に限らず、社会でも、その習慣性が自然と身に修めていて、今も実施している姿が学修であります。

日常生活で考えると、例えば、歯を磨きます。乳歯が入れ替わり、生涯をともにする歯と入れ替われば、歯を磨くことを学び、そこからは丹念に歯を磨く行動に移ります。毎日磨きます、食事のあとも、寝る前にも、と、手入れをします。

こうして歯を大切にすることで、歯の健康が保たれることになり、その成果として、知らず知らずに、肉体の健康にも役立ってゆきます。これが身についた善い歯磨きの習慣性であり一生続きます。反対に、歯の手入れをおろそかにしていると、虫歯になったり、歯槽膿漏という疾患にかかったり、年を重ねるたびに歯が弱り、入れ歯を余儀なくする羽目になります。また、歯も悪質な疾患にかかると死にも及ぶこともあるといわれています。こうして健康に悪影響を招くことになります。

このように学習という精神は、日常の出来事(個人・仕事・事業など)を、毎日「復習」し、明日への「予習」することが習慣が付いていることが大事です。習慣になっている人は人生大過なく生活をしています。

 だから、習慣になっていない方は、今すぐに「復習」「予習」を習慣化する努力をすれば、今日からすべてが好転する始まりとなります。これが『学習』[学修]の基本精神であります。

 

商道(2)利益

淮南子『詮言訓』に「事業は衆民と共同でなされるもので、功績は時勢とともに完遂するものである」とありますが、事業というものは一人で成り立つものではなく、色々な専門的技術をもった人たちが寄り集まって成り立っています。また、功績、即ち利益というものも、その時代の時勢や時流に順応して得られるものであって、自分ひとりの力ではないことを厳に認識しなければならない。

そもそも商い[事業]での「利益」というものは、本道の副産物であって一元的なものではありません。利益とは「他を益することによって、己を利する」という意味であります。大丸百貨店の初代が残された訓戒のなかに「先ずお客さんに喜んでもらうことによって、その後に利益がついてくる」といった文を読んだ記憶がありますが、それが「利益」という本筋であります。

利益に対する精神が間違っていると、一時的には儲かったように思っていても、どこかで必ず大きな損失に遭ったり、失敗したり、破滅に向かっていくのが必然的な原則であります。過去において、倒産した多くの会社や商店は、経営に対する利益概念が間違っていたからの結末といわなければなりません。

 

淮南子『兵略訓』に

「明王が兵を用いるのは、それが天下人民のために害悪を取り除き、万民と共同してそれぞれ利益を享受するためのものであるから、人民の用(はたら)きたるやあたかも息子が父のためにまた弟が兄のためにするほどの[自発的]ものだ。その威力の加わった勢いは、山をも崩し堤防をも決壊させるようなもので、いかなる敵も立ち向かえない。」とある。

この言葉から引用すると、事業というものは、共同してそれぞれの利益を受けることができるから、社員は自発的に行動するのである。そうした組織の勢いというものは如何なることにも立ち向かう力をもっているものである。ということである。

 

だから、利益は、相互扶助の精神と、社会貢献の精神と、適正利潤の算出を忘れてはなりません。

 

商道(1)力量

トップの力量

物事が上手くいくか、いかないかは、トップの力量にかかっています。トップが、事業に対する本質と方法論[道理]と正しい行動を正確に弁えていないと、事業はいつも不安な状態になります。

 

最近あった事例ですが、結論からいいますと、依頼した商品が出来上がってきたら、注文内容と異なった商品が送られてきたというものです。

担当者は「正しい資料送っておいたのに」という。相手の担当者はそうは思っていなかったので、その資料があると混雑するので「捨てた」という。「なぜ捨てた」と聞くと、前にOKという資料をもらっていたからという。そのOKの資料に訂正箇所があったから再度送ったという。こうしたことはあってはならないことであります。しかし結局は、出来た製品を破棄して、新しく造ることになった。双方にとって大きな損失である。

こうした間違いが常に起これば会社は倒れてしまいます。また、こうした一つの問題が会社の将来性を予測できるといっても言い過ぎではないでしょう。

こうしたときは、トップは速やかに業務の工程・チェック機能の改善をしなければなりません。こんなとき「これからは気をつけて」だけで終わっては、大変なことが次に起こることになります。天をあまく観てはいけない。つまらないトップの力量には、天は力を貸さないことになるものです。よくよく心しなければいけない。

この事例を見てもわかるように、結局は担当者でなくて、会社が損害を受けることになります。それはトップの責任問題であります。何事も成否のかぎはトップの一身にかかっています。その責任を逃れることはできません。

例えば、木材を切るときに、棟梁が墨で線引きをします。切りおとす人は、その線に従って切ることで目的はかなえられ建築の材料となり役立ちます。しかし、線引きが間違っていると、その木材は廃材となってしまいます。

このように、正しいトップの元では役に立つ人材が育ちますが、力量のないトップの下では、まともな人材は育たないことになります。

事業を成功に導くには、先ず、トップとしての力量を毎日弛むことなく向上させていくことが大事です。もし、部下が進歩しないと思ったときは、トップが進歩していないことに気づかなければ、事業の伸展はないものと考えて間違いありません。

「技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。才の大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一(ととのう)であって、逸脱は起こりえぬ。聖人はこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。」とあります。

 

このように世の中には不要な人材などはいないのであって、人材を見抜けないのはトップの力量がないからである。と戒められています。管理者はこれぐらいの力量をもって事業はしなければ発展しません。「相手がダメだから」と、いつも責任を回避しているようでは管理職は失格です。

 

商道とは

商いの意味を広辞苑でみると、「あき」は秋で、農民の間で収穫物・織物などを交換する商業が秋に行われたから、そのことを「商」、即ち、「あきない」といったようです。今でいう「商売」であります。

商いの始まりは、物々交換から始まり、やがては品物を仕入れて、それを売ることで生活をする。これが商いの目的としてはじまりました。ところが、時代の進化と共に、人を雇い入れるようになり主従との雇用関係ができるようになりました。そこには、雇用者の生活費の確保という重大な責任が生じます。したがって、そのためには計画を立て利益の追求の目標を立てて進める必要に迫られました。これがいわゆる「事業」の起こりであります。

 

「事業」とは、「事」は事実という意味で、目で見てわかる現実のことです。「業」とは、わざ、なりわい[生業]ということ、即ち、複数の人々を一同に集めて、リーダーはそれぞれの技術者を駆使して物を生産して社会に貢献するということが「事業」であります。

 

そこで「商売」と「事業」の相違を考えてみますと、商売は適正利益の追求が目的であるのに対して、事業とは、雇用関係が成立するので、人を育てるという責任があるということです。だから、事業の利益というものは、人が育った内容と比例して与えられるものであります。

 

言葉をかえると、事業は社会貢献度によってその組織に利益が還元され与えられるものです。こうした事業本来の道理に適合しないと、一時的には良く見えている事業でも、将来性の期待はもてないことになるでしょう。

 

これが事業の本質であります。したがって事業を志すものは、内には筋の通った商売根性を秘め、雇用責任を果たし、事業の本質の道理を修得して、よく社会に貢献する精神をもって事業の遂行を果たさなければなりません。

 

淮南子『主術訓』に

「技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。才の大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一(ととのう)であって、逸脱は起こりえぬ。聖人はこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。」とあります。

 

「何事も、成否のかぎは君主の一身にかかっている。上の墨縄が正しく引かれればこそ、下の木が真直ぐに仕上がる。縄は何もしないが、よりどころを得た木の方がかくなるのである。さてこそ、正しい人主の下では、直行の士が事に任じ、姦佞(かんねい・心がまがってわる賢い)の徒は影をひそめる。不正なる人主のもとでは、邪の輩が志を遂げ、誠あるものは隠遁する。」とあります。

 

商い、事業というものは、結果的にはトップの人間性と経営能力にあるのであって、交渉力や経済力ではないことを、厳に肝の命じ経営能力の修得に努めなければならない。

人道(2)教化

「教 化」(教え従わせて感化させる)

淮南子『主術訓』に「民は上の言葉によらず、行いにより教化される。」とあります。

言葉だけで人を真に感化させることはできません。人は、正しい行動を観て、それに従い共感し感化されるのです。

押し売りのように、言葉だけ聞いて、その言葉だけを信じて行動すると、結果、失敗となることが多いのが現実です。

言葉を聞いただけで慌てて行動してはいけません。その人の現実を知り、行動の実場を観て、あるいわ現物の実際を体感して、共感できれば、それから後に行動に移すことが大切です。

また、「琴瑟(きんしつ)の表わす音に人の哀楽をかきたてる力があるのに、法による賞罰に風俗を改める力がないのは、そこに誠の心が籠らぬ故である。」とあります。

音楽を聴いていると、人々は心の底から悲しみや楽しさを感じ感動させられます。しかし、法律で書いてある「それは、してはいけない」という文面を読んでも、例えば、飲酒運転や駐車違反のように、それになかなか従わないのは、文字には「誠の心が感じない」からであります。

 

人と語り合う時は、誠の心をもって情熱を傾けて話さないと、人を共感させ感動させ納得させることはできません。人を納得させられないのは、誠の心と行動力が不足しているからである、といえます。

だから、人を「教化」(育成・教育)しようと思えば、自分自身が行動力を強化することが大事です。“論より証拠”といわれるように、先ず、自らが実践してその範を示すことが早道であります。

 

自分が出来ないこと、していないことを人に言っても、人は本心から従いません。こうしたことは時代や年齢に関係なく古今東西不変の理であって変わるものではありません。

上司や親、または専門職による、ただ権力だけによって「しなさい」と号令して、たとえ「はい」といって行動したとしても、それは本物でない場合が多いでしょう。「教化」とは、心から共感し感化させなければ、真に役に立つことにはならないものです。

 

人道(1)修身

「修 身」(実践して修める)

淮南子『謬称訓』(びゅうしょう)

「近く(一身の修養)をす[捨てる]ておいて、遠く[人民の治化]をもとめても、先はまっ暗だ」とあります。自分が改善できていないのに、人々が自分に従ってくれると思ってはいけない。そんな心がけでは、自分の先々の将来性などはあてにならない。と、戒められた言葉です。

また、「善いことを耳に入れるのは容易だが、それによって身を正すということはむつかしい。」と戒めがあります。両親・先生・先輩から、毎日のように新しい智識を増やしています。また、テレビやネット・書籍からも新智識を多く学んでいます。でも、実行に移さないと、意味がないどころか役に立ちません。

「これは良い」と思うことは、1ヶ月に一つでもよいから取り入れて実行してみることです。1年で12の新しいことが取り入れることになります。大きな前進ではないでしょうか。私も、テレビを通じて健康な食材や運動を学んでいます。15年続けている食材と運動があります、だから、今も元気であると感謝しています。

また、「勇気のない者は、はじめからこわがるのではない、困難にぶつかったときに、身の守りを失うのだ。貪欲なる者も、はじめから欲ばりではない、利得を目の前にして、その害(ひど)さを忘れてしまうのだ。」

困難にぶち当たったときに、自分が事に耐えて辛抱できないのは勇気がないからであります。また、「金さえあれば」「儲かりさえすれば」と金銭欲だけが強いのは、真の金銭の利害関係を知らないからか、知っていても貪欲(分限を超えた欲望)が頭を持ち上げるかのどちらかである。と戒められた文面です。

金銭に対する修身は最も大事なことであり、最もむつかしい修身かもしれません。しかし、ここ一番の時の投資と行動ができないと、一生チャンスを逃がしてしまいます。そのためには、常日頃から智識をひろめ、行動力を持って精神を鍛えて修身しておかないと、正しい決断はできません。

 

人道とは

生命ある動植物のすべては、必然的システムの中で生存しています。野性に生息している動物などは、その限られた山中で食べるものを探すだけに生きているようなものです。最近では、その食料も尽きはてて町に出没し、食べ物を探し求めるようになっています。また、人間によって飼育されている動植物などは、その良否は別として、人間の思うままに生かされているというのがその現実です。

こうした地球環境のなかで、人間だけが与えられた能力をもって自由奔放に分限もわきまえずに活動をして生きています。その結果として、地球の温暖化と共に、人間的常識も大きく狂いだしています。

先には、長崎で射殺事件が起きています。「自分の思いが通らなかった」という勝手な理屈で起きた事件です。愛知では息子と娘を討ち警官も射ち殺す。こうした事件は毎日のように各所で起きています。

 

「人間として、してはいけないこと」が意識されていないからこんな行為が増えているのです。「このときは、かくあるべきである」といった、人間としての常識的行為の指導が十分なされていないからであります。

 

最近の子ども達をみても、家庭で正しく躾けられていない子ども達が増えています。子どもたちの行為を見たり言葉づかいを聞いたりしていればわかります。「子どもは、かくなければならない」という、家庭での常識的教育が徹底していないことが挙げられます

 

最近になって、政界で国民の経済的格差が広がっている。と大きな声を上げて論戦しているが、人間的、精神的格差の調整の方が、それ以上に大事ではないのかと思うのが現在の人間社会であります。

 

地方の経済的格差も整えなければならないが、もっと大事なことは、人間的成長、人間的格差を無くすことが先決問題であると思います。それは人間的安定という基礎の上に経済がのらないと、真の人間社会の安定はないからであります。

 

経済的格差は、それぞれの限界能力において考えなければ公平にはなりません。単に社会的責任に置きかえることは間違いであります。それは、例えば幼い子どもに百万円与えても使途が判らず、役に立たないといったようなものであります。

 

経済的不均等な格差が生じるのは、「政治家」「事業家」「指導職」「人間の先輩」等々のなかで、人間として、専門家とし、「それぞれの正しい道」を行い、行うだけでなく、正しく後輩や子ども達に伝達しなかったことが、あらゆる面での格差が生じた一つの大きな要因であることに責任を感じなければなりません。

 

その要因を取り除くためには、正しい「人としての道」を学び、行い、正しく伝えていかなければなりません。そこで「人道とはかくあるべき」という道を、参考文献などの文章を選んで辞典の役割を果たして、人々の一寸した日常の行為の中での役に立つことを願っています。

 

道学(2)学問

言志四録に

「学問を始めるには、必ず立派な人物になろうと志をたて、それから学問をすることである。そうでなくて、ただいたずらに、見聞を広め、智識を増やすためにのみ学問をしていると、その結果は、傲慢な人間になったり、小賢く悪巧みをするような人間になる心配がある」。と戒められています。
 
何事でもそうですが、行動を起こすときは「何のために」、という目的をはっきりさせっておくことは重要なことです。目的が明確でないと、その時々で心が変わることがあるからよくありません。
 
学問も「何の目的のために学ぶのか」と、その志をしっかり立てることが大事です。学生たちも「進学するために」と、その目的意識が明確である学生ほど、進学率が高いのではないでしょうか。
 
子どもが生れると、とくに母親は、色々な本を求めて育児の勉強をはじめます。「元気な立派な子どもに育てたい」、という目的があるからです。その目的達成には少々の犠牲がともなっても進めていきます。
 
母親がこうした目的がもてるのは、子どもの育成という意志と自覚がしっかりしているからであります。学ぶということは、こうした善なる目的があれば学問の価値は大いに役立つことになります。
 
言志四録に
「学問する効験は、人の気質を変えて良くすることにある。そしてそれを実行する元をなすものは立志にほかならない」とあります。
 
学問をする効果は、「人の気質を変えて、良くすることにある」、と、あるように。普通、気質なんて、そんな簡単に変わるものではない。しかし、その気質が学問を深めることで変えて良くなる。と、しています。
 
学問の「ききめ」はそれほど大きな力を備え秘めています。次に、その学んだことを実行する力となるのは、「立志にほかならない」と断言されています。だから、自分自身の「意志」を確立した上で「目的」を明確にすることが学問を進めるための大事な要であります。
 
学問の目的は、学生時代のことだけではありません。自分の気質を如何なる場合においても、変化し順応できる大きな人間性を養うことにあります。人間の道、商買の道、事業の道、を踏み誤らないように良き道を学ぶことが学問であります。しかし、学んだことを実行しなければ何の価値もありません。そこで、実行するためには「学ぶための立志」をはっきりさせる事が重要となります。

道学(1)道理

道理とは、広辞苑によると、「物事がそうあるべき理義」「すじみち」「ことわり」「人が行うべき道」とあります。すなわち物事には「これは、かくあるべきだ」という基本的なすじみちがあるということです。

社会には政治界・経済界・各事業界・各組織界・各スポーツ界・各家庭界・人間界と、それぞれの世界があり、その各界にはそれぞれの規律・決め事・約束ごとなどが存在しています。
 
大きな枠組みには政治が国を治めるために、上記の七つの各界のすべてに「法令」がしかれています。法令を犯すと罪になり、そうした罰則規定に従って、社会秩序や人間の権利と尊厳など、国家の治安が守られています。これらはすべて、先輩たちが長い歴史の中でつくり上げてきた規律でありますが、これ等も「道理」には違いありません。この道理は知ると知らざるに関わらず、その道理に違反すると警察や裁判所で厳として裁かれることになります。こうした国家の法律は社会的道理であります。この道理は目に見えた誰が見ても判断できる道理であり、それに違反すると犯罪行為となります。
 
私が道学でとりあげている「道理」とは、法律で裁くことができない、「人としては、かくあるべきではないのか」という道理のことであります。所謂、日常の仕事や生活で発生する行為のことであります。
 
言葉をかえると、歴史を通じて先人たちが築いてきた、幸せになるための道理、また、例えば、近江商人が残した事業者としての道理、さらには世界の英雄が残した人間完成への道理など、私たちが、成功・幸福の文字を実現させるための「道理」のことであります。
 
道理を身近な問題で考えて見ましょう。例えば「おはよう」と元気に大きな声で挨拶ができない子どもがいる。何故「おはよう」がいえないのかと思う、学校でも社会でも「おはよう」と、明るく、元気よく、楽しく言えない人がいるのはどうしてかと考える。
 
その答えは簡単である。家庭で両親が明るく元気よく「おはよう」と言っていれば子どもたちも自然とそのようになって行くものであります。また、学校でも、授業がはじまる前の第一声の「おはよう」を元気に、明るくと、「おはようとは、かくあるべき」だという姿を、毎日教えていれば子どもたちは、そうした習慣性が自然と養われることになるでしょう。
 
道理を学ぶということは、こうした身近な日常生活から実践することが大事です。先日、小学生が市立の中学校に入学した子どもの家庭環境をテレビで或る先生が発表されていた。優秀な児童の家庭環境は、自分の個室では勉強していない。リビングの食卓で勉強している児童が多いという。調査の結果200人中180人がリビングで勉強していたという。残りの20人は部屋の扉を開けっ放しにして勉強していたというのが調査の結果であった。
 
子どもたちのそうした理由は、家族の声を聞きながら学習をしていると安心できる。親がそばに居ると集中できる。というのが子どもたちの答えでありました。
 
2007年に入って、政府は、小学校の教科に「道徳」を設け、中・高校では「人間」か「人生」という教科を設けると発表をした。青少年の犯罪が毎年増え続け、子どもたちのモラルが大きな社会問題となり、「いじめ」や子どもの自殺行為など憂慮することがあまりにも多いことに教育問題の改善の意志のあらわれといえます。
 
「道理のさだめに従う代わりに己の能力のみを頼るならば、行き詰まりは必定だ。さてこそ、才智は天下を治めるに足らぬ。」、とあるように、道理に従わないで、自己中心に毎日過ごしていると、事も行き詰まって破滅の方向に向かうことが多くなります。
 
正しい「道理」を確り身につけなければ、幸せ、達成、満足にはなりません。このことを厳しく肝に命じて人生を楽しいものにしなければならない。

道学とは

日常生活の中で、刻々と常に変化がおこっています。考えてもいなかったこと、思いもよらない出来事が色々形を変えて次々と発生いたします。そのとき、人々はどれだけ正しく道理に適合した思考と行動力ができるのか、は、大事な問題であります。そのときの思考と行動如何によって、その結果に善悪の大きな相違が待ちうけています。「よかった」「大変なことになった」という二者が必ず待っています。それは、踏み出す一歩によって結果が変わることになります。

王陽明は、「静かなときはよい心がけでいるように思われるのに、何か事に出くわすと、それが変わってくるのは何故か」の問いに「それは静養を知るだけで、克己の修行をしないからだ。そんな風であれば、事に臨んだときに転倒する。だから事上に錬磨してはじめて安住し、静時にも安定し、動時にも安定するようになるのだ。」とのべています。

「道学」とは正しい知識を正しく実践するということですから、毎日の行動変化の中で、どれほど物ごとを正しく判断ができて、正しく行動することができるか。しかもそれが、どれだけ習慣づけられているかということであります。そのためには、日頃から正しい道理による行動力が大事となります。

淮南子「詮言訓」に
「(矩・く)物差しが正しくなければ、方形をつくることはできない。(規・き)コンパスが正しくなければ、円形をつくることはできぬ。一身は、万事の規であり、矩である。自己を枉(ま)げていて、他人を正すことができたとは、未だかって聞いたためしがない」とあるように、「道学」とは、思考するとき、行動するときは、「正しい物差しで、物ごとを判断して、その後に行動しなさい」と、大きな声で叫んでいるのが道学であります。また、「道学」とは、「自分の考え方を優先して行動してはいけない」、といことを警鐘している言葉でもあります。