商いの意味を広辞苑でみると、「あき」は秋で、農民の間で収穫物・織物などを交換する商業が秋に行われたから、そのことを「商」、即ち、「あきない」といったようです。今でいう「商売」であります。
商いの始まりは、物々交換から始まり、やがては品物を仕入れて、それを売ることで生活をする。これが商いの目的としてはじまりました。ところが、時代の進化と共に、人を雇い入れるようになり主従との雇用関係ができるようになりました。そこには、雇用者の生活費の確保という重大な責任が生じます。したがって、そのためには計画を立て利益の追求の目標を立てて進める必要に迫られました。これがいわゆる「事業」の起こりであります。
「事業」とは、「事」は事実という意味で、目で見てわかる現実のことです。「業」とは、わざ、なりわい[生業]ということ、即ち、複数の人々を一同に集めて、リーダーはそれぞれの技術者を駆使して物を生産して社会に貢献するということが「事業」であります。
そこで「商売」と「事業」の相違を考えてみますと、商売は適正利益の追求が目的であるのに対して、事業とは、雇用関係が成立するので、人を育てるという責任があるということです。だから、事業の利益というものは、人が育った内容と比例して与えられるものであります。
言葉をかえると、事業は社会貢献度によってその組織に利益が還元され与えられるものです。こうした事業本来の道理に適合しないと、一時的には良く見えている事業でも、将来性の期待はもてないことになるでしょう。
これが事業の本質であります。したがって事業を志すものは、内には筋の通った商売根性を秘め、雇用責任を果たし、事業の本質の道理を修得して、よく社会に貢献する精神をもって事業の遂行を果たさなければなりません。
淮南子『主術訓』に
「技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。才の大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一(ととのう)であって、逸脱は起こりえぬ。聖人はこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。」とあります。
「何事も、成否のかぎは君主の一身にかかっている。上の墨縄が正しく引かれればこそ、下の木が真直ぐに仕上がる。縄は何もしないが、よりどころを得た木の方がかくなるのである。さてこそ、正しい人主の下では、直行の士が事に任じ、姦佞(かんねい・心がまがってわる賢い)の徒は影をひそめる。不正なる人主のもとでは、邪の輩が志を遂げ、誠あるものは隠遁する。」とあります。
商い、事業というものは、結果的にはトップの人間性と経営能力にあるのであって、交渉力や経済力ではないことを、厳に肝の命じ経営能力の修得に努めなければならない。