コロコロ

あるとき、テレビをみていると、野球界のイチローさんが健康について話をしていた。「僕はどこへ行くにもこれをもって行くんです・・・」と、私が使ってるこの写真の健康器具を持ち歩いているということを知った。

 

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もう三年位になると思いますがそれ以来私も真似をしている。

持ち歩いてはいないが、朝、目が覚めると顔を洗ったあと先ず、コロコロを踏むことにしている。コロコロは約10分で終わる。その後は必ずアクアクララの水をコップ一杯飲む。

今、考えてみると、その頃は、よくマッサージとか鍼灸にときどきお世話になっていた。しかし、あれから三年、最近は肩が凝ったりしなくなっていることに気づいた・・・

よいことで、直ぐ真似が出来ることは、真似するにこしたことはない。しかし、永く続けないと「よかった」ということにはならない。

健康管理の一つとして、コロコロは、私のお薦めの一つである。

 

目前の利

 DSC_0601.jpg『一時の機に投じ、目前の利にはしり、危険の行為あるべからず』 (住友家の家訓より)

 

物事は、前後の状況を十分に理解して、100%の可能性がない限り、物事をすすめてはならない。

今の時代、状況判断が明確にできてないときは、物事を実行に移してはいけない。

「後で何とかなる」といったような時代ではない。

養生の知識

貝原益軒(養生訓より)

『五 思』 

ものを食べるときに考えなければならないことが五つある。それを五思という。

一つは、この食は誰から与えられたのかを思わなければならない。幼いときは父によって与えられ(中略)兄弟、親戚、あるいは他人から養われることもあろう…その恵を忘れてはならない。

二つは、この食は農民の苦労によって作り出されたことを思わなければならない。忘却してはならない。自分で耕作しないで、安楽にしていながら養いを受けることができる。その楽しみを思わなければならない。

三つは、自分に才能も備わった徳もなく、さらには正しい行いもなく、君主を助け、人民を治める功労もないのに、こうした美味しいものを食べることができるのは、ひどく幸せであると思わなければならない。

四つは、世間には自分より貧しいひとが多い。その貧乏な人びとは糟や糠でも有難く食べている。ときにはそれすら食べられずに飢え死にする者もいる。自分は上等なおいしい食事を十分に食べて飢餓の心配はない。これは大きな幸福というべきであろう。

五つは、大昔はまだ五穀(米、麦、粟、豆、黍)はとれず、草木の実と根や葉を食べながら餓えをまぬれていた。そののち、ようやく五穀がとれるようになっても、まだ火を用いて食事を調理する方法を知らなかった。釜や甑(のちの蒸篭)もなく、食べ物を煮て食べなかった。生でかんで食べたので、味もなく胃腸をそこなうこともあったのであろう。

 

いまは白い飯を軟らかく煮て、十分に食べ、しかも吸い物があり、惣菜があって朝夕の二回にわたって十分に食べている。そのうえ酒があって心を楽しませ、気血をたすけている。

朝食や夕食をするたびに、この五思の中の一つでも二つでもよいから、かわるがわる思い起こして忘れてはならない。そうすれば、日々の楽しみもその中にあることに気づくであろう。これは私の私見(臆説)である。ただここに記したまでである。

 

六中観について

六中観 (りくちゅうかん):『安岡正篤作』

一、忙中閑あり  「ぼうちゅう かんあり」

一、苦中楽あり  「くちゅう らくあり」

一、死中活あり  「しちゅう かつあり」

一、壺中天あり  「こちゅう てんあり」

一、意中人あり  「いちゅう ひとあり」

一、腹中書あり  「ふくちゅう しょあり」

※脇屋解説(毎月一項づつ6回で解説をいたします)

 

一、忙中閑あり 

「忙しい、忙しい…」というのは、行動に計画性がないからだといわれている。字義からみても「忙」という字は「心」と「亡」からの合体字で、すなわち「心が死んでいる」という字義になる。

そこで「忙中閑あり」という意味ですが、忙しい…忙しいだけではなく、「閑あり」それは“閑をつくりなさい”ということを教えている。

「閑」を辞書を引くと「ひまなこと」「仕事がないこと」とある。だから、仕事をしないで「考える時間」をとる「計画や段取」ができる時間をとることが「閑」ということになる。

例えば、8時間の仕事をするには、90分は思考・計画・段取の時間に当てないと、好い効果のある仕事はできないと考えるとよい、しかしその90分は、8時間の中でとるのか、または8時間外でとるのかは、それぞれの考えで自由である。

このように「忙中閑あり」とは、物事を進めるときは「忙しい」だけで終わらないように、成果を治めるには、思考・計画・段取りが大事となる。

 

人間学

二宮尊徳翁の訓えより

『学問修行の眼目』

師はこういわれた。仏教信者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、よく修行すべきだ。修行して最高の地位にたどりつければ、国家を富ませ、世を救う以外に道はなく、世の中に益のあることを勤めるほかに道はない。

これは、たとえば登山のようなものだ。山が高く見えるうちは勤めて登るべきだが、登りつめればほかに高い山はなく、四方すべて眼下になるようなものだ。この場にいたれば、仰いでいよいよ高いのは天だけである。ここまで登ることを修行といい、天のほかに高いものがあるように見えるうちは、勤めて登るべきだし学ぶべきである。

 

『利己と貪欲が国を亡ぼす』

師はこういわれた。国家の衰亡は、国民がお互いの利益を奪い合いすることがはなはだしいためである。富者はこれで十分ということを知らず、世を救う心もなく、十分である上にもさらに追い求めて、自分勝手な工夫をし、天地の恵も知らず、国の恩も思わない。

貧者はまだなんとかして自分の利益を得ようとするが、よい智恵もでないので、納めるべき村費をとどこおらせ、出すべき小作米もださず、借りたものを返さない。貧富ともに義を忘れ、願っても祈ってもできがたい工夫ばかりして、利を争い、その見込がはずれたときは、破産と言う大河の悲しい境遇に沈むはめになる。

この大河を覚悟して入るときは、溺れ死ぬまでのことはなく、また浮び出ることも、向こう岸に泳ぎつくこともあるが、覚悟なくしてこの河に落ちる者は、再び浮き出ることができず、身を終わる。

 

小学を学ぶ

中国古書『小学』より

楊文公の家訓にいう。

『少年の学問は単なる記憶や暗誦だけではなく、その良知・良能を養わなければならないが、それには、先人の言が大切である。よって、古今を問わず、日日、歴史的事実をおぼえさせる。それには必ずまず孝弟・忠信・礼儀・廉恥など、徳性を養うに足る故事、たとえば、黄香が暑中に親の枕席を扇いで冷やしたこと、陸席が袁術の所に客となり、出された蜜柑を懐に入れ母に献じようとしたこと、楚の為艾が両頭の蛇を殺して陰徳を積んだこと、孔門の子路が親のために米を遠方から背負って来た話などを、世俗の物語のように、やさしく興味深く教えて、道理を理解させるのである。これを久しくやっていると、無理がなく、良知良能本来
の姿のままで、その徳性ができ上がるのである』

 

※解釈
●橘(たちばな)=みかん
●楚=国名
●陸席(りくせき)・袁術(おんじゅつ)・黄香(こうか)・為艾(いがい)=人の名前 

 

※脇屋の一言と

小学校時代の勉強は、知識を身につけるだけではなく、本来の徳性(人柄)を磨くことを忘れてはならないと、譬えを示して教えたが上記の文である。 

初に、黄香は「暑いときは、親の枕元をあおいで涼しい風をおくり、寒いときは身体で掛け布団を温めたと話している。

次には、陸席が六才のとき、袁術の家を訪ねて行ったとき、袁術が陸席に三個の蜜柑を出した。しかし、食べずに懐に入れて持って帰った。「お客に来て食べずに持ち帰るとはどうしたことか」とたずねると「彼は帰って母にやろうと思ったのです」と応えたので「感心した子供だ」と讃えたいう話。

また一つは、為艾が子供の頃、両頭の蛇に逢い、これを殺して埋めて家に帰って泣いていた。母がそのわけを聞くと「両頭の蛇を見た者は死ぬと聞いたので、母と別れるのはつらいから泣いている」と応えた「その蛇はどうしたのですか」と聞くと「他人がまた逢うといけないので殺して埋めた」と応えたので、母は「陰徳ある者には天は福をもって報いる。お前は死なずにすむだろう」と言った。

こんな話しを小学の時代に、機会あるたびに何回も何回も聞かせておくと、自然と、人としてのあるべき姿、いわゆる人間としての徳性、自己の人格が無理なく形成されてゆくものであると教えられている。

このようにして、学校での知識の詰め込みだけでなく、良知・良能を鍛えることを忘れてはならないことをこの文で学びたい。

 

随筆

「死んでもいいから、元気でないといかん」と長崎の田舎に行ったとき、おじさんがよく言って笑わしたものでした。そのおじさんも今は天国に帰ってしまいました。

「死んだらあかん、でも、元気でないとあかん」と言ってあげればよかった。多分、死んでも元気に天国で活躍してるかも……と思いたい。

昨年暮れに風邪をこらしたのが原因で、微熱がつづき体調を大きく狂わせてしまった。 「風邪だけはひかなきょうに…」と常々担当医から指示をうけていたのに、不注意だったと思っている。結果には何事にも原因があるように、体調を崩す原因はあった……毎日、私は朝10時頃に事務所に出て、仕事が終える時間は18時にしていた。

しかし、この時期無理をしていた。

 

ある日、寒気がするのに、大丈夫、大丈夫と過信をして21時まで毎日のように頑張っていた。

ある夜中、熱が下がらず、救急で大阪労災に駆け込んだ。急いで緊急処置をうけ、翌日、担当医に診断をうけ、その後CT検査・血液検査・点滴治療と矢継ぎ早に治療をしていただいた…が簡単には治らなかった。

それから三ヶ月間、吉川部長医師が、点滴治療や必要と思われる検査を指示され、病原の追求をして下さったが、結果は無理しすぎが原因、ということで終わった。

そのほかにも原因があるようだ。それは、昨年10月で満80歳になったことだ。昔から八十の山を越えるのが難しいと言われている「そうだ…そこだったのか…」と、肉体の変化時期であったことも、大きな原因のようである…と後悔先に立たずであった。

四月に入って完全回復となった…私の目標である、今から10年間…元気で活躍できるように健康に十二分の配慮をするために、新しい健康管理をすすめようとしている…今の私である。

 

菜根譚

菜根譚(197引用)

『鷹の立っているようすは眠っているようで、虎の歩く姿は病み疲れているようである。しかし、これこそ、人につかみかかり、かみつく手だてである。これを見ても、君子たるものは、おのれの賢明さを外に現れないようにし、おのれの才能をやたらに振り回すことのないようにして、それで初めて大事を双肩に担って行く腕前があると言えよう。』

 

自然体

『特別なことでなくいいから自然で普通が好い』

相撲界で、横綱の態度が時折問題になっている。横綱は最高位にあるため、人間として人格というか人柄が要求されている。多くの目があるので、本人は解っているはず…。然し単純なことではない。

人格とは、自然に、それらしい風格が具わってこなければ本物ではない。ムリをして、つくり上げるのはよくない。普通にして、自然に形成されてこそ、その価値観が尊い。
 

 

子供の育成

“しつけ”

「それでもあんたは親なのか」といわれる親たちが多いといわれる。「幼児虐待」という聞き辛い文字や言葉を時折見たり聞いたりする。

聞きわけがないからといって暴力を加えて死に至らしめる実例もある。どうしたことかと統計をみると、こうした親は仕事をもっている人に多いようだ。

子供の「しつけ」は幼児期が最も大事であるから、幼児期はできる限り、子供をしっかり抱きしめて、溢れるような愛情の中で育てることが「しつける」上で、最も大切なことである。

 

今月心がけ

五月の心がけ

五月の干支は、己巳(つちのと・み)である。

「己は、紀(すじみち)である。物が始めて成就した時には、そこにすじめがある。」と五行大義にあり、また鄭玄は「戊とは茂ることであり、己とは、起こることである。万物はみな枝葉を繁茂させ、その中で、特に秀でたものは、抑えられていても起き上がることを言うのである」と解説しています。

「巳は、巳(やめる)である。もとの体がここで洗い去られ、すでに竟(おわ)ってしまうのである。 また「巳は起(おこる)である。ものがこの時になってみなことごとく起こるのである」と三礼義宗にある。

この上記の中で先に理解してほしい言葉がある。上二行目に、「竟」(おわる)という字があるが、この意味は単に終わってしまった。ということではなく、春夏秋冬の四季のように春がおわっても夏に向かい…また春が来るといった循環性の内容であることを理解をしてください。

さて、五月の心得ですが、今の社会情勢から考えてみたいと思いますが、日本は今年は  のマイナス成長率である発表され、米国や欧州各国から比べて、一番悪い状況のようです。このことに世界の評論家は、日本は独自の政策をもっていないからだと……独自性がないというか、独立性がないというか、このように思われているのが現状のようであります。

 政治、経済、企業、個人も、それぞれの立場に立って五月にやらなければならないことは、五月で、今抱えている問題のすべては竟(おわ)ることです。竟(おわ)る前に、ムダなこと、ムリなこと、ムラを無くして整理整頓することが重要です。五月中にこうして、植木でいうなら、時が来たらムダな枝葉を切り払うように、「今その時」が来たのです。そして、次へと大きく飛躍できる思考・計画・実施へと連携し自然の気流に循環しなければなりません。

人力には限界があり、究極は天地の理法によって社会は動かされていることを自覚することが大事でしょう。