二宮尊徳翁の訓えより
『学問修行の眼目』
師はこういわれた。仏教信者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、よく修行すべきだ。修行して最高の地位にたどりつければ、国家を富ませ、世を救う以外に道はなく、世の中に益のあることを勤めるほかに道はない。
これは、たとえば登山のようなものだ。山が高く見えるうちは勤めて登るべきだが、登りつめればほかに高い山はなく、四方すべて眼下になるようなものだ。この場にいたれば、仰いでいよいよ高いのは天だけである。ここまで登ることを修行といい、天のほかに高いものがあるように見えるうちは、勤めて登るべきだし学ぶべきである。
『利己と貪欲が国を亡ぼす』
師はこういわれた。国家の衰亡は、国民がお互いの利益を奪い合いすることがはなはだしいためである。富者はこれで十分ということを知らず、世を救う心もなく、十分である上にもさらに追い求めて、自分勝手な工夫をし、天地の恵も知らず、国の恩も思わない。
貧者はまだなんとかして自分の利益を得ようとするが、よい智恵もでないので、納めるべき村費をとどこおらせ、出すべき小作米もださず、借りたものを返さない。貧富ともに義を忘れ、願っても祈ってもできがたい工夫ばかりして、利を争い、その見込がはずれたときは、破産と言う大河の悲しい境遇に沈むはめになる。
この大河を覚悟して入るときは、溺れ死ぬまでのことはなく、また浮び出ることも、向こう岸に泳ぎつくこともあるが、覚悟なくしてこの河に落ちる者は、再び浮き出ることができず、身を終わる。