五月五日(端午)

 DSC_6249.jpg『端午』とは、「初五」の意で、「端」は初めという意味であり、「午」は五と同じ意味であります。つまり端午は、もともと月の初めの午(うま)の日のことをいい、毎月の上旬五日の意味もありました。特に五月五日をさすようになったが、古くは五月以外の五日にも使われていたらしい。

中国では月と日の数が重なる日を祝日にする風があり、五月五日を端午として祝うようになった。重三の(三月三日)、重陽(九月九日)と同じ由来をもつ。

古来、中国では、この日、野の出て薬草を摘んだり、よもぎでつくった人形を家の戸口にかけたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気をはらう行事が行われた。日本では、菖蒲やよもぎを軒に吊るしたり、ちまきや柏餅を食べてお祝いをした。江戸時代以降は、男子のいる家では鯉のぼりを立て、甲冑・刀・武者人形などを飾って、子供の成長を祝う行儀となった。

八十の山

「顔色が好いですね・・・」と、時折訪ねてくださる吉野さんから声をかけられた。

吉野さんは声が大きくいつも明朗快活な女性である。知合って二十年近くになります。「最近、皆さんがそう言ってくれます」と、こころよく応えると、「そうでしょう・・・顔色を見ただけで、元気になられたことがわかりますよ・・・」と病気あがりの私に太鼓判を押されたように心に嬉しく響いた。

 

私の健康ドラマは次の如くです・・・

20才のとき肺疾患にかかり(当時は感染病の扱いで、肺病といわれて周囲から嫌がられたものです)その後、気胸療法で完治しましたが・・・41才のとき、肺と心臓が癒着しているという後遺症が発生して、診断の結果、関西医大で左肺の上部切除の手術を受けました(背中から脇腹にかけて36針縫ってあります)

70才になたとき直腸癌といわれて大阪労災病院で手術をうけ、然し、直接腸に繋ぐことができたのが不幸中の幸いでした(今になり特にそう思う)その後順調に回復し元気になったと思えば・・・75才には、胃癌と言われまた大阪労災病院で三分の二の胃を切除しました。こうして私の体は刀傷で醜いものになってしまいました。

今年の誕生で81才になりますが、今は「病い抜けした」というか、「元気になりましたね・・・」と吉野さんが言われるように、とても元気で感謝の日々です。しかし、昨年の暮れから80才を超える三ヶ月間は、体調の変化が厳しく少し難航しましたが、無事航海が終えたようです。

 

私を知っている方々は、「そんな体だったの・・・」と驚嘆されることでしょう。外見・言葉ずかい・身体の動き・歩く姿勢などからでは、多分知ることはできないと思います。今は、私の健康を語って多くの人々に知っていただくことにしました。この長いドラマを語りつづって行くことで、何かの、誰かのお役に立つのではないかと考えたからです。

だから、時間をかけて、ゆっくり、肉体面・精神面・行動面・養生面・飲食面等について話して行きたいと思考しています。愚才ですが、もし、ご意見やご質問があれば、それにお応えしたいと思っています。後、10年今の現役のままで、私の『ある目標』に向かって前進いたします。・・・そのように決心いたしました。

 

春の高山祭り

DSC_9206.jpg四月十四日の昼すぎ、獅子舞、雅楽、闘鶏楽などとともに神輿の巡幸が始まると、各町内から十二基の屋台(山車)が繰り出す。

屋台はいずれも飛騨の匠たちの秀でた技術によって作られた豪華なもので、「動く陽明門」とも称される。屋台のからくり人形も有名。夜は夜祭が行われ、提灯がともされる。翌十五日は還幸の本祭りとなる。

緑の週間

4月23日~29日は都市や学園の緑化、水源林の造林、水害防止林の造成などの公共的な植林を行って、日本全土の緑化を推進する運動。

昭和25年から始まり、はじめは4月1日からの一週間であってが昭和天皇の天皇誕生日が「みどりの日」になった関係から、4月23日からの一週間となった。

アメリカではすでに1872年(明治5年)にネブラスカ州で愛林思想普及運動が行われている。日本でも、明治27年び「植樹デー」「愛林日」と称して、学校植林行事が施行された。

ハナミズキ

DSCN2220.jpg

 

『薄紅色のハナミズキ……』

歌手,一青 窈さんの歌詞である。

人生は我慢して努力すれば・・・いつかは実が結ぶ・・・単に努力するだけではなく……目的が結実するまで頑張らなくては意味がない…幸せが百年続きますように・・・と願いが込められた歌である。彼女が歌うと・・・心の奥までその願いが響いてくる。

彼女は、いま、カンボジアで“はじめて”という歌を少年少女たちに聞かせて、夢をもち命の大切さを歌を通じて教えている・・・

そんな福祉的な活動をしているようだ・・・

大阪谷町の花園公園に咲いている「ハナミズキの花」をみて、そんなことを感じている。

 

学ぶ

DSCN2201.JPG

 

四月は入学時期である。

小学・中学・高校・大学・各種専門学校等があり、それらの学校に新入生が入学してくるがどんな気持ちであるのか・・・と考えると・・・時代は変わっても人間に感情がある限り、自分が入学したときの頃を想い浮かべるとよくわかると思う。

『学』は、「学ぶ」ということではあるが、

『学は立志より要なるはなし。而して立志も亦之を強うるに非らず。只,本心の好む所に従うのみ』 と言志録(佐藤一斎著)にあります。

勉強せよ・・・と言われてしているようでは、本物にはならない。「学ぶ」というのは、自分で目標を立てて、心を奮い立たせて自分の足で前に進むということである。小学生であっても、それなりに「目標」をもっていなければならない。中学生は尚更のこと、高校生は勿論のこと、大学生なら人生の目標をもっていなければいけない。

『学ぶ』ということは、そういうことである。

 

養生の戒め

DSCN1788.JPG貝原益軒【養生訓】より

『過酒食と薬』 

酒食をすごして腹痛になったときは、酒食を消しさる強い薬を用いないと酒食を消化できないものだ。たとえば、敵軍がわが領内に乱入し、戦をいどみ、城を攻め破ろうとした。そのとき、こちらからも強兵を出して防戦し、敵に勝つためには味方の兵士も多く討ち死にしないと勝てないようなものである。さながら、薬を用いて食物を消化させるのは、自分の腹中を敵味方の戦場にするのと似ている。
飲食した酒食が敵と化して、わが腹の中を責め破るのみでなく、自分が用いた強い薬も、みな病気を攻撃しようとするから元気をへってしまう。敵も味方もわが腹中で乱戦し、元気をはなはだしくへらす。
敵を自分の領内に引きこんで戦うよりは、領外で防ぎ、侵入させないことがもっともよい。酒食をすごさないでひかえめにすれば、敵にはならない。強い薬を用いてわが腹中を敵と味方の合戦場にすることは、胃の気をそこなってしまう。残念というほかはない。
 

『夕食は軽く』

夕食は朝食よりもとどこおりやすくて消化しにくい。だから夕食は少ないほうがよい。軽い薄味のものを食べるがよい。夕食に副食物の数の多いのはよいことではない。副食物を多く食べるのは禁物である。
魚や鳥などのように味が濃く、脂肪が多くおもいものは夕食にはわるい。菜類も、山芋、人参、白菜、芋、くわい、などの品は、とどこおりやすく気をふさぐものだから、夕食に多く食べてはいけない。食べなければそれがもっともよい。

『持病と食べ物』

すべての宿疾を起こすものを書きとどめて決して食べてはいけない。宿疾とは持病のことである。食べてその場で害になるものがあり、また時を経て害になるものもある。即時に害にならないからといって食べてはならない。
 

人間学

『知らず」という言葉の意味』 

師はこういわれた。『論語』には、孔子に質問すると、孔子が「知らず」と答えていることがしばしばある。これは知らないのではない。教えるべき場合でないときと、教えても益がないときがあるからである。今日、金持ちの家に借金を申し込むと、先方が「折あしく持ちあわせがありません」というのと同じである。「知らず」ということに大きな味わいがある。よく味わってその意味を理解すべきだ。

 

『理屈に合わないのが真理』

師はこういわれた。哀公が孔子の弟子の有若に、「飢饉で国の費用が不足だが、どうしたらよかろうか」と尋ねた。有若は「どうして十分の一の税法をなされないのですか」と答えた。これはおもしろい道理である。

私はいつもこういって人を諭している。一日に十銭取って足りなければ九銭取るがよい。九銭取って足りなければ八銭を取れ、と。人の身代は多く取ればますます不足が生じ、少なく取っても不足はないものである。これは理屈に合わないが真理だ。

 

『大極・無極の論』 

師はこういわれた。儒教の大極・無極の論がある。思慮の及ぶのを大極、思慮の及ばないのを無極といっただけだ。思慮が及ばないからといって無とはいえない。遠海に波なし、遠山に木なしといっても、ないわけではない。自分の眼力が及ばないだけのことで、これと同じである。

 

小学を学ぶ

 『孔子の言葉に、士(学問をする者)たるものが道を学ぶことを志しながら、自己の粗衣・粗食を人前で気にかけるようでは、とても道について話し合うわけには行かない。』

小学「嘉言第五」

※解釈:肯じない(がえんじない)=承知しない

 

『張横渠先生の語に、

「子供の教育には、まず落ち着いて、物事の取り扱いをていねいにし、態度をうやうやしく、心につつしみの多いようにと教えるのが肝要である。近ごろは正しい学問が行われず、男女とも、幼児から驕惰の習慣がついてだめになり、成長するに従って、ますます無軌道乱暴になっていく。

すなわち、少年時代に長上に仕える作法を学ばないので、親に対してすでに被我が対立の思想があり、自我を固執して親に従うことを肯じない。驕惰の病はこのように幼時に根を生じ、それが環境に従ってますますひどくなり、一生涯癒らないことになるのである。』

 

(張横渠先生の言葉のつづき)

『人の弟子として子弟の仕事である掃除や賓客への応対などを嫌がり、朋友と交わるにはこれにヘり下ってその益を求めることが出来ず、役人となっては、その官の長たる人の命令に従えず、宰相となっては、天下の賢者に敬意を表してその忠告を聴くことが出来ない。

更に甚だしいものは、自己の意のままに振舞って、正しい道理など一切かまわないようになるのは、皆この驕惰という病根がとれずその病が居る所、接する所に随って益々ひどくなるためである』とある。

 

 

随筆

DSCN2130.JPG

 

天王寺から天満橋に通じている道路が谷町筋と称している。この谷町筋の下は、地下鉄が運行され天満を経て東梅田駅に通じている。

この谷町筋の七丁目の交差点から約百メータほど歩くと、谷町筋をはさんで空堀商店街が右側と左側に分かれてお店が居並んでいる。七丁目から向かって右側の商店街は上町筋に通じ、左側の商店街は松屋町筋に通じている。

この環境をみて考えられるのは、昭和の初期頃にはおそらく谷町筋がなくて、空堀商店街はひとつの道路としてつながり、その両側にお店が並んでいたに違いない、と、ちょっと想像してみるのも面白い、歴史を紐解けば直ぐにわかることではあるが、と、思いながら考えていた。

この左側の商店を五十メータほど進むと、下り坂になっている。こんな坂道に店舗が並んでいるのは、お寺かお宮などの参道以外には考えられない環境であるが、いつも多くの人々で賑っているから不思議である。

でも、何軒かの老舗と思われるような店は今も健在のようではあるが、厳しい社会経済の昨今では、何回も入れ替わる店舗があり経営の難しさを表わしている。「昔は良く売れて、いつもお客さんが並んでいたが下にスーパーができてから、お客さんが上ってこなくなり、昔は三人雇用していたが今は一人ですわ……」と時代の変化を物語る店主に出会った。

空堀商店街は戦火に遭わなかった商店街として大阪では有名場所の一つであるだけに、いつまでも元気にあってほしいものである。