菜根譚

中国古典『菜根譚』(196引用)

※橙橘=だいだいとみかん

『日がすでに暮れても、なお夕映えは美しく輝いているし、年の暮れに当たっても、橙橘のたぐいは一段とよい香りを放っているではないか。

そこで、晩年に際しては、君子たるもの、一段と精神を振い立たせて最後を飾るがよい。』

『整理・整頓・後始末』 解説:脇屋 

何事も締めくくりは大切である。一年間の自分のこと、家庭のこと、仕事のこと、を整理(いらないものを捨てる)して必要なものだけを整頓(事象ごとにまとめる)しなければいけない。

さらに、どの問題に対しても一応の締めくくり(後始末)をしておくことも重要である。年が明けて、この問題は「ここから」と、出だしを明確にしておくことも年の瀬の行事である。12月は、一段と精神を振い立たせて、整理・整頓・後始末をすることである。
                                                 

育成

『「バカになるまい」という詩』

テストでいつもよい点ばかりとっている人が

必ずしも賢い人とはいえない

そういう人のなかにも

案外たくさん バカな人がいる

テストでどうしてもよい点のとれない人が必ずしもバカな人とはいえない

そういう人のなかにも

たくさん

おがみたくなるような尊い偉い賢い人がいる

せっかくいただいたただ一度の

かけがえのない自分の人生

二度いただけない大切な自分の人生

それを自分で汚しダメにし

台なしにしてしまう人

こんな人は

いくら頭がよくたってバカだ
 

心がけ

『感謝で終えよう』

 師走である。一年のしめくくりを感謝で終わってほしいと思っています。十一ヶ月が過ぎ十二月は、しめくくりの月であるが、十一ヶ月過ごさせていただいたことに先ず感謝することが大切であります。

「感謝」という言葉について考えてみますと、「咸」という字は、「天地」とか「つづく」という意味があり、所謂、変わることのない宇宙に存在する原理原則と不変の道理のことであります。即ち「つづいて変わりのない道理」ということであります。

「咸」の下に「心」を合体させると「感」という字が形成されます。感とは、天地の道理に叶ったことに出合うと心が大きく動きます。「感動」とか「感激」という言葉のように、正しいことに出あうと、心が激しく揺れ動くことになります。或いは、講演を聞いて感動を覚えたり、音楽を聞いて感激したりするのは、自分の人生と交差する部分があったりすからであります。また、自分自身が、知らず知らずに、正しい道理に照らし観て講演を聴いているときには、気分がその域に達したときは感動することになります。

「感応同響」という仏教用語がありますが、これは、物事を感じるときの状態を表わしたものです。例えば、電話をかけようとします。そのときは、相手が居て、電話があり、自分が居る、という三つの条件が整っているからであります。もし、相手が留守であれば目的は果せません。このように物事を感じるということは、必ずこの三つの条件が整っているときであります。

そこで「感謝」でありますが、感謝ということは必ず相手があるということです。それに応えるには「謝」の字を見ると「言」と「身」がありますから、言葉に出したり、または、身、即ち行動で表現することを教えています。感謝とは「心で感じた」だけではダメで、言葉や行動で応じなければ十分ではありません。

十一ヶ月を振り返って、少しでも感謝しなければならない方々に対して、メールではなく、手紙でも書いてみては如何でしょうか、きっと、素晴らしいしめくくりとなることでしょう。

 

新知識

貝原益軒【養生訓】より

『夜食の法』

夜食する習慣のひとは、日が暮れてからまもなく食べるがよい。夜更けになって食してはいけない。酒食の気がよく循環し、消化したあとに寝るのがよい。消化しないままに早く寝ると病気になる。

夜食しないひとでも、夕食後に早く寝てはいけない。早く寝ると食気がとどこおり病気になる。とにかく夜は活動するときではない.だから飲食しないで少しは空腹でも害はない。やむなく夜食をしなければならないときは、、なるべく早く、しかも少し食べるがよい。

夜酒は飲まないがよい。もし飲むとしても夜食と同様に早くして少しがよいのはもちろんである。

 

『食と栄養と』

世間では食を制限しすぎると栄養不足でやせてしまう、という。これは養生を知らないひとのいうことである。欲が多いということは人間の本性であるから、制限しすぎると思われるくらいが適当になるのである。

 

『腹七、八分の飲食』

飲食物に出あうと、食べたいという心が強くなって食べすぎても気づかないのは、いわゆる一般の人びとの習性である。酒、食、茶、湯など適量と思うまえに、腹七、八分のひかえめにして、いま少し不足だと思われるときにやめるのがよい。飲食がすんでからかならず腹十分になるものだ。

食べているときに十分だと思うほど食べると、食後はかならず腹がふくれすぎて病気になるのである。

人間学

『よく自戒して下流にいてはいけない』

師はこういわれた。子貢の言に、「紂王の不善もこれほどひどいわけではない。だから、君子は下流にいるのを憎むのだ。天下の悪がみなその一身に帰してしまうからだ」とある。

「下流にいる」とは、心の下がった者とともにいることをいう。そもそも紂王も天子の友とすべき者、すなわち上流の人のみを友としていれば、国を失い悪名をはせることもなかっただろうに、婦女子や心がねじけている者のみを友としたために、国は亡び、悪名がその身に帰したのである。

これはただ紂王だけがそうなのではない。人々はみな同じである。つねに太鼓持ちや三味線引きなどとばかに交わっていれば、たちまち滅亡にいたることは間違いない。

それもごもっとも、これもごもっともとへつらう者とばかり交わっていれば、正宗の名刀といえども、腐れて用に立たないようになろう。

子貢はさすが孔子の門人のなかでも高弟である。紂の不善もこれほどひどいわけではないといって、この故に君子は下流にいることを憎むのである。と教えたのだ。 必ずしも紂の不善も後世に伝わるほどひどかったのではあるまい。お前たちも、よく自戒して下流にいてはいけない。

 

※脇屋注釈 

下流とは、立場の上下とか貧富のことではありません。毎日の生活や仕事をする中で行動を起こすとき、道理に叶った理念をもって、正しい立居振舞いをしているかということで、いいかえると社会常識があるか、無いかということあります。

社会常識のない人と付き合っていては、自分の成長はありませんよ・・・と自戒を促された文面であります。

 

小学を学ぶ

 『「儀礼」の士相見礼篇にいう。人と話をするには、相手の人の本務とすべき道に関して語るのをよしとする。すなわち人君と語るには、臣下を使う道、その辛苦などについて話し、大夫などの大人に対しては、君に事える心得、経験などにつき語り、老人に対しては、子弟はいかに使うべきかの問題を、その子弟たる幼者に対しては、その父兄に孝弟を尽くす道について語る。又一般の人々と語るときには、社会生活の原則たる忠、すなわち自己の心を尽くして人のために謀ること、信、すなわち人との約束を違えないこと、慈、すなわち人に対して温情をもつこと、祥、すなわち鬼神から福をうくべき善行などについて語り、官職についているものに対しては、とくに官として忠と信とを忘れない心得について語るべきである。』
 

 

 『「曲礼篇」に人と会食するときの注意として次のようにある。人と一つの器から食するときには、自分が十分満足するまで食べない。一つの器の飯を食するときには、手をもんだり、こすったりしない。飯を手でまるめない。食べのこしの飯を元に器中にもどさない。汁物を大口にすすりこまない。口中で舌うちの音をさせながら食べない。骨付きの肉を食べるときは骨までかじらない。食べのこしの魚や肉を器の中にもどさない。骨を犬に投げ与えない。よろず独り占めにしようとしたり、先に取ろうとしたりしない。飯の熱いとき、熱気を冷やすためにこれをもち上げない。黍(キビ)は匙(サジ)で食べ、箸を用いてはならない。飯には羹(アツモノ)がつく。羹の中に菜がはいっていないときは、すすりこむが、菜があるときにはよく噛んで食べる。菜を噛まずに汁だけをすすりこんではいけない。出された羹の味が口に合わなくても、調味料を加えてはいけない。歯についたものを取り去ろうと歯をつついてはいけない。醢(シオカラ)をすすってはいけない。
  

随筆

10月12日(日)滋賀県の信楽町で商工会が主催する「しがらき陶器まつり」が催されていたので行ってみた。十年ぐらい前には陶器を物色によく陶器の町信楽に行ったものであるが、その頃は、奈良経由で山越えをして信楽に着くには二時間をかけて行ったことを想い出す。

しかし、今年の2月23日に新名神高速道路が開通し、名神高速道路の草津JCTから東名阪自動車道の亀山JCTに通じた。その中間に信楽インターがある。ここで下車すると信楽の陶器の中心まで10分もあれば着く。大阪からでも一時間もあれば行けるので便利になった。

この陶器まつりに出品している知人がいるので行くことにしたのである。村上さんという女性で十年前には、デザインやキャラクターを作成していたのだが、ある日突然、信楽に弟子入りして陶器を学ぶと言い出して信楽に行ってしまった。

その村上さんが十月の初めに当所を訪れた。その折に彼女が焼いたという陶器を頂き、話によると独立して「羅工房」を開設するということであり、そうした理由もあって、お祝いをかねて出店している「羅工房」を訪れたのである。

この日は彼女の作品が並べられて販売されていた。作品には小鉢物的な小さな陶器が多く、大きな陶器は作成していないようであった。少し買い求めてが、彼女は気づかいをして値引きをするといいだした。「そんなことは、いいよ、いいよ」、「いえ、いえ、遠いところを来て頂いたから」と押し問答して結局値引きしてもらうことになった。それからしばらくは、他店の陶器を楽しみながら数時間を過ごして帰路についた。

菜根譚

菜根譚(194引用)

『大事業をなし遂げる人というのは、多くは虚心で円滑な人である。(これに反し)事業に失敗し機会を失うような人は、必ずかた意地で執念深い人である。』

 

「成功する人柄とは」  解説:脇屋 

虚心円滑というのは、「あっさりしてくったくがない」ということである。しかし「あっさり」したくてもできない人が多い。その原因は、解決していない問題を多く抱えている場合が多い。

だから、何事も分相応以上の問題を抱え込んではいけない。今日のことは、今日中に始末できる範囲内で取組むことである。

「虚心」とは「何時も心が空である」ということであるから、言い換えれば、何時も心に余裕があるということでなければならない。

 

育成

『教育とは人間性を育てること』

教育とは、「教え育てる」という意味であります。ただ「叱る」「怒る」だけでは子供は成長いたしません。

毎日、子供とどのように接しているでしょうか?、考えて見てください。「ダメだ」という前に「何故ダメなのか」を教えているだろうか、を考えなくてはなりません。

十五歳を過ぎてから悪いことをするようになるのは、十五歳までに「これはしてはいけないこと」を十分に確りと教えていないからであります。

子供を育てるには、十五歳までに悪いことは些細なことでも見逃さないように、口うるさく叩き込まなければなりません。それが教育であります。

 

心がけ

『成功は時流を読む実力が必要』

人生も事業も「努力しておれば何とかなる」というものではない。仏法の教えに「教・機・時・国・教法流布の前後」という教えがありますが、この教えを今の社会的に照らして考えてみましょう。

物事を社会の中に広くゆきわたらせるには、それなりの条件が整わないと、成長とか成功はないということをこの教えの中で学ぶことができます。

その条件とは、先ず「教」すなわち法律、規律、教育システム、製造方法など、その他宇宙に存在するあらゆる創造原理のことであります。

次の「機」は時代のことであり「21世紀にはー」とうことです。具体的にいえば、その時代の風俗などの衣また衣・食・住など、時代に相応した文化文明の伸展とともに変化し続ける環境のことであります。

第三番目の「時」は時期のことで、四季のように春に種を蒔けば秋には必ず収穫ができるといったように、物ごとが間違いなく成り立たせるには、それぞれに適合している「行動タイミング」の「時」が大事になります。

国というのは、「場所」のことをいいます。世界各国の文明文化が違い、また、国々によって人々の思考や行動も違います。このように、日本の中であっても北と南の「場所」では、生活様式や言葉にもかなりの違いがあります。また都道府県でもその「場所」によって物事の決まりをが異なっています。

この四つは「創造システムの構築」「環境の変化分析」「行動タイミングの把握」「実行場所の正確性」と言い変えることができます。五つ目に「教法流布の前後」と締め括られているのは、事を起こすときは物事の前後をよく観察せよと戒められている言葉です。

 

だから物事を進めるときは、必ず、昨日・今日・明日と、今日を起点とし、その前後に間違いないか、よく確認することが大事です。創造・環境・行動・場所のそれぞれについても、三回以上は見直してみることも大事なことです。

世の中の人々が、成功しようと思って失敗するのは、教・機・時・国・教法流布の前後、この五原則を無視しているからに外ありません。