養生の戒め

貝原益軒【養生訓】

『だんごより飯の多食は不可』

飯はよくひとを養うけれども、同時によくひとを害するものである。だから飯はとくに多食してはいけない。つねに適量の分量をさだめておかなければならない。

飯を多く食べると、脾胃をいため、元気をふさいでしまう。ほかのものを食べすぎるよりも、飯の過食は消化しにくくて大害になる。

他家を訪問して、そこの主人がせっかくととのえてくれたご馳走に箸をおろさないと、主人の誠意を無視するようで心苦しく思うならば、飯を普通時の半分にし、副食物を少しずつ食べるのがよい。こうすれば、副食がやや多くても調和がとれて食物にいためられない。

飯をいつものように食べて、また魚鳥などの副食物を多く食べると、かならず身体に障る。飯のあとに、茶菓子といって餅や餌などを食べ、後段(二の膳)として麺類など食べると、満腹して気をふさぎ、食物のために身体をいためる。

これは日頃の分量をすぎたからである。茶菓子や二の膳はいわゆる予定外の食物であるから、少し食べればよい。度をすごしてはならない。もし食後に少し食べようと思ったならば、あらかじめ飯をへらしておくことだ。

 

『口腹の欲をおさえる』 

飲食のことばかりいうひとはいやしまれる。孟子もいうように、小さいものを養って、大きいものを忘れるためである。と、すなわち口腹の欲にひかれて道理を忘れ、ただ飲み食って満腹することばかりをのぞんで、ついには腹がはって痛み、病気になる。また酒に酔って酒乱になるのはもっともいやしむべきことである。

 

『適量を守る 』

好物に出あったとき、また空腹時に美味な珍しいものに出あった時にも、品多く目の前にならべられても、適量をすごさないように自制して度をこさないよう心がけなければならない。
 

 

小学を学ぶ

本文:『曲礼篇にいう。人は目のつけ所が大切である。相手に対する目のつけどころによって、その人の心中がわかるからである。およそ視線が対手の顔面より上にあるときは、その人が傲慢の念を抱いているのであり、帯より下にあれば、心に憂いを抱くことを示す。頭を傾け視線を左右にするようなのは心の正しくないことをあらわす』

 

脇屋解説

「目を見ればその人の心が分る」といわれるように、毎日の生活の中で、お互いにそんな経験は幾度もあると思います。例えば、子供が親から叱られるとき、都合が悪くなると、子供は親の目をそらし下を向きます。「頭を上げてしっかりお母さんの目を見なさい」などといって、人との接し方を教えます。

本文にあるように、「相手に対する目のつけどころによってその人の心中がわかる」また、「視線を左右にするようなのは心が正しくないこと」なと動作を具体的にあげられています。子供の育成、社会での人々との接し方など、心して行動しなければなりません。

本文:『儀礼』の士相見礼篇にいう。人と話をするには、相手の人の本務とすべき道に関して語るのをよしとする。すなわち人君と語るには、臣下を使う道、その苦辛などについて話し、丈夫などの大人に対しては、君に事える心得、経験などにつき語り、老人に対しては、子弟にはいかに使うべきかの問題を、その子弟たる幼者に対しては、その父兄に孝弟を尽くす道について語る。また、一般の人と語るときには、社会生活の原則たる忠、すなわち自己の心を尽くして人のために謀ること、信、すなわち人との約束を違えないこと、慈、すなわち人に対して温情をもつこと、祥、すなわち鬼神から福をうくべき善行などについて語り、官職についているものに対しては忠と信を忘れない心得について語るべきである。』 

 

この文は人と話合いをするときは、相手と自分の立場を理解して、話の範囲や話の筋道を間違えないようにして、お互いの話が成立するように、それぞれの立場の話し方の道を諭された文面です。

 

 

人間学

『恩に報いることを心得れば、何事も思うままになる』 (二宮尊徳翁の訓えより)

師はこういわれた。『孝経』に、「孝弟の極に達すると、鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、感化を受けないところはない。東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」とある。この語の解釈をある世俗的な儒者がなした説は、何のこととも理解しがたい。今、わかりやすく説明すればこういうことである。

そもそも孝とは、親の恩に報いる勤めであり、弟とは兄の恩に報いる勤めである。すべて世の中は、恩に報いなければならない道理をよくわきまえれば、何事も心のままになるものである。恩に報いるというのは、借りた物は礼を述べて利息を添えて返し、世話になった人にはよく感謝をあらわして、買い物の代金はすみやかに払い、日雇い賃は日々払うということである。

すべて恩を受けたことをよく考えて、よく報いるときには、世界の物は、実にわが物と同じく、何事も欲するとおり、思うとおりになる。ここにいたって、「鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」となるのである。ところがある歌に、

“三度たく飯さえこわしやわらかし 思うままにはならぬ世の中”

とある。これは全く違っている。これは勤めることも知らず、働くこともせず、人の飯をもらって食う者が詠んだに違いない。そもそも世の中は前にも述べたように、恩に報いることをよく心得れば、何事も思うようになるものである。それなのに思うようにならないというのは、代金を払わないで品物を求め、種を蒔かずに米を収穫しょうと願うからだ。この歌の初句を「おのがたく」と直して、自分自身のことにすればよかろうか。

 

随筆

例年のように理髪店の前にある土地に遅咲きの朝顔の苗が植えられた。いつもながら、この朝顔は本当に咲くのかなーと思っていたら九月過ぎから次から次と咲き出すといった変りものの朝顔である。

私が思っているのは、一般的に朝顔が咲くのは八月という思いが子供の時から強いから、九月から咲くのは……と想っているからである。この写真は七月の初に撮ったもので今はこの十倍ぐらいに枝葉が茂り上段の紐に絡みついて横に長く延びている。

ここのところ梅雨も上がり、毎日の気温が33度から35度とうだるような暑さである。子供たちも二十日から夏休みに入り海を楽しむ季節になったが、昨日は悲しいことに13人の子供たちが池や海で亡くなったニュースが流れた。将来のある子供たちを大人は確りと管理責任があることを忘れてはならない。

朝顔もこの灼熱の太陽の光を恵みに変えて、これから毎日少しづつ成長を遂げてゆくのである。毎朝、この朝顔と「おはよう」と挨拶を交わしながら今朝はここまで延びたね…と思うとつい笑みがこぼれる思いである。そんなことを思っているのは私だけではない、通りすがりの人が立ち止って見ている人がいる。きっと、私と同じようなことを考えているに違いないと思うと、また、フフと笑わずにはいられない気がする。

朝顔の成長をもっと気にしている人がいる。その人は理髪店のオーナーとスタッフである。ジョウロに水を入れて朝顔に毎朝水を与えている姿を見るからだ。彼女達はどんなに花の咲く日を待っていることであろう。丁度、恋人を待つように…。

 

育成

「思いやり…」

「思いやり」とは、相手の立場に立って考えることが出来る吸収力です。

思いやりのある人というのは、その人の傍にいるだけでも安心感があり温かさを感じます。 「思いやり」は同情心と趣がちがいます。妻であれば、夫の立場で考え、夫は妻の立場で物事を考えることです。

したがって、子供を育てるには、親が子供の立場に立って考えるしかないのです。子供は親の立場に立つことは出来ないからです。

思いやりのある親に育てられた子供は思いやりのある人間として成長していきます。しかし、甘えと思いやりを間違えてはならなりません。
  

菜根譚

(中国古典・菜 根 譚193)

『山が高くて険しい場所には草木は生えないが、しかし谷川のめぐる低い所には、草木がむらがり生えている。水の流れの激しい場所には魚類は住みつかないが、しかし水のよどむ深みには、魚類が多く集まっている。これを見ても、孤高の行いや、度量の狭い性急な気持ちは、君子として深く戒めておくがよい。』

 

解説:脇屋

今日実行したことの結果は、三日後か、七日後、或いは十日後にその事象が現れることになる。その事実を確りと見届けなければいけない。もし見逃すようなことがあれば、何時までたっても先を見抜くことは出来ないだろう。

また、十日後に現れた事象は、即座に処理しなけばならないが、それまでの事は性急に解決を急ぐと反目になることが多いから注意しなければならない。

コメント

「運命は自分でつくる」

人それぞれに運命は一応定められている。…というのは生れたときのことであります。例えば、生れながらにして○○社長の息子である。…このことは誰も取って変わることが出来ない事実であり、このことを宿命的運命というのであります。

しかし、この宿命的運命は安定したものではありません。息子が成長するまでに会社が倒産することもあり、
大きな借財を残して社長が死ぬこともあります。だから宿命的運命は将来の幸せをを約束されたものではありません。

最近、中央区に五百坪程の土地を整地して十二月からマンションの建築が始まろうとしている場所があります。聞くところによると、資産家の息子が受け継いだ資産だといいます。これが宿命的運命であります。しかし、この宿命的運命を覆すことがあります。

それは後天的運命であります。後天的運命とは、自分自身で作る運命のことであります。「運」とは、運送ということで、いわゆる物を運ぶ意味があります。したがって、運ぶとは、動いてる状態、すなわち、努力している行動体を表わしているのが『運』ということであります。したがって、運命を自分で作るには「運」すなわち自分自身の努力の如何によって運命が変化することになります。

「善因善果、悪因悪果」という言葉があります。努力して人々に喜んでもらえるような善い種を蒔けば、運命はよい方向に進んで行きますが、悪い種を蒔くと運命は悪い道に入ってしまいます。そういうことが哲理であります。

しかし、世の中は厳しいものですから、善い考え方をしたからといっても、直ぐにその結果が出るわけではなく、一年後かまたは三年後かも分りません。悪い考え方で行動しても同じことが言えます。直ぐに結果がわかれば誰だって努力を惜しまないと思います。

でも、直ぐにその結果が出ないから「因果応報」だ、なんていわれても、「はい、そうですか」とは素直に受け止めにくいことであります。しかし、現実には、後になって「ああしておけばよかった」とか、「もっと努力しておくべきであった」ということはよくありがちです。だから、そのようなことのないように、過ぎた日に悔いることのないように、日々努力を重ねなければ、よい運命には出会わない。