陳忠粛公の語に、小学(嘉言第五)より
「学問に志す少年は、まず人間の上等と下等とを区別し、何が最高の上等の人、すなわち聖人賢者のすることか、何が最下の下等の人、すなわち下愚のすることであるかを見きわめて、自己の中にある下等の劣悪な要素を取り去り、善い要素を取り入れていかなければならない。これが少年の最も先に心がけることである。
このように志を高くもち、上等の人のやり方を学べば上等の人に近づくが、もし志を高くもたないなら、平凡なつまらないことしか学べない。すなわちこのような少年は話が顔回や孟子のこととなると、柄でもないことであるとしりごみし、自分のような少年に、どうして顔子・孟子のような大賢人を学ぶことができるものかと考える。
このようなものには、上等の人のことは話しても駄目である。先生や徳行のすぐれた人々はこれを相手としない。これらの人々が相手としてくれなければ、相手になるのは、下等の人だけとなる。下等の人は発言に忠信を欠き、行為に篤敬がない。過っても悔いることができず、またそれを率直に改めることができない。これらの下等の人を相手とし、下等のことばと下等のことの中にいるのは、家の中にすわり、その周囲をみな堀や壁で取り囲まれたのと同じで、下等のことの外は何も分らない。目を開き、心を明らかにしたいと思ったとしてもできる筈がない、とある。
※注:
上等=上の等級のこと、最もよいこと、を意味しているのであって、貧富の差を言ってるのではない
下等=段階が低いこと、いやしいこと、を意味しているのであって、貧富の差を言ってるのではない
※脇屋釈
『朱に染まれば紅くなる』という格言があるように、人間は、関る相手次第でどのようにも変化してゆくものである。人柄をみるときは、「その人が付き合っている知人や友人を見れば大体の判断がつく」
と云われているように、子供の成長はその友達を見る。事業の成長はトップの付き合う相手で決まる。といっても過言ではない。