養生の心得

(貝原益軒 養生訓より)

 

食当りと絶食

食当りのときは絶食がよい。あるいは食べる量を日頃の半分に減じ、または三分の二にまで減じてもさしつかえない。食べ過ぎのときは早く入浴するとよい。

魚や鳥の肉、魚や鳥の干塩(干物)、生野菜、油っこいもの、ねばっこいもの、堅いもの、もちやだんご、そして菓子類などを食べてはいけない。

 

消化不良と朝食ぬき 

朝食がまだ消化しないうちは、昼食をしてはならない。点心(茶の子、つまり茶うけの菓子)などを食べてはいけない。昼食が消化しなければ夜食をしてはいけない。昨夜食べた食物がなおとどこおっていたら、朝食をぬくがよい。もしくは半減し、酒や肉を絶つこと。

とにかく食あたりを治すには絶食がもっともよい。絶食すれば軽い食あたりなら薬を用いないでも癒る。

養生の道を心得ないひと、また知識がない人は、食がとどこおっている病気にも早く食事をすすめるから病気が重くなる。ねばっこい米湯などはことに害になるものだ。むやみにすすめてはならない。

病気の症状によって、とくに食当りの病人は、1、2日絶食してもさしたる害はない。邪気がとどこおって腹がふくれているからである。

 

穀物と肉類

煮すぎて味を失ったものと、まだよく煮えていないものを食べてはいけない。魚を煮るときは十分に煮なければ悪い。煮すぎてその香味を失っては味もなく、しかも胸にとどこおりやすい。ほどよく煮ることである。蒸した魚はそれが長くなっても煮えたての味を失わない。魚を煮るのに水を多くしては味をそんじてしまう。

 

小学を学ぶ

小学に学ぶ (中国古書)

 

馬援の兄の子の馬厳・馬敦の二人は、二人とも好んで政事の是非を論じ、他人の過失を譏り、また軽薄で豪気をたっとぶ人々と交わった。

馬援が交跡に遠征中、この子供たちを戒めてよこした手紙に次のようにある。

自分はお前たちが他人の過失を口にしないようにと希望する。他人が父母の名を呼ぶのを聞くのは仕方がないが、自分ではこれを口にすることができないように、人の過失を聞いても絶対に口にしないことにしてもらいたい。

私は、人の短所をかれこれ言い、軽々しく政事や国法の是非を口にするのは大嫌いだ。若し子孫にそのようなことをするものがあると聞くくらいなら、死んだ方がよいと思っている。

あの竜伯高は、重々しい人で注意深く、妄言を発せず、謙遜で放縦でなく、浪費癖がなく、金銭にきれいで、事をなすのに公明とまことに威風堂々たる君子である。私はその人となりを愛しかつ重んじ、お前たちに伯高のようであって欲しいと念じている。

又あの杜季良も豪傑である。彼は豪気で狭骨に富み、自己の利害を顧みずに人の事に尽くし、人の憂いをわがことと憂い、人の楽しみをわがことと楽しみ、清潔な人とも、そうでない人とも、皆よく交わっている。彼が父の喪に客を招いた時には、数郡の人が皆来会した。自分は彼を愛重する。しかしお前たちには季良のまねをしてもらいたくない。

というのは、伯高のまねをすれば、伯高ほどにはならなくとも、謹み深い人にはなれる。『鵠(白鳥)を雕れば失敗しても、アヒルには似る』といわれているように、大体似通ったものが出来るだろうが、季良のまねをして失敗すると、天下一の軽薄者となりかねない。『虎の画はしくじると狗になる』といわれるように、似ても似つかないものになる。季良を学ぶことは、むつかしく、危険であるからだ。」

 

※ 竜伯高=人名   杜季良=人名

 

人間学

二宮尊徳翁の訓へ

循環の道理

師はこういわれた。この世界で咲く花は必ず散る。散るといってもまた春が来れば必ず花が咲く。春に萌え生ずる草は必ず秋風に枯れる。枯れるといってもまた暖かい風にあえば、必ず芽を出す。

万物みなこれと同じである。それゆえに無常といっても無常ではない。有常とはいっても有常ではない。 種だと思っているうちに草となり、草だと見ているうちに花が咲き、花が咲いたと見ているうちに実となる。実と思う間にまたもとの種となる。

だから種となったのが本来なのか、草となったのが本来なのか、これを仏教では不止不転の理といい、儒教では循環の理という。万物すべてこの道理にはずれることはない。

 

滅亡の原因は内にある

師はこういわれた。暴風で倒れた松、虫くいの穴に雨露が入りこんですでに倒れそうになっていた木である。大風でこわれた垣根も、もともと杭は朽ち縄は腐っていて、いまにもこわれそうな垣根だったのだ。

そもそも風は平等均一に吹くもので、松を倒さんとことさらに吹くわけではなく、垣根をこわそうと特別に吹くわけではない。風がなくとも倒れるべきところに、風が吹いて倒れ、破損したのである。天下のことはみなそうだ。鎌倉幕府の滅亡も、室町幕府の滅亡も、人の家の滅びるのもみな同じである。

 

六中観

六中観(安岡正篤著書より)

1、忙中閑あり
1、苦中楽あり
1、死中活あり
1、壺中天あり
1、意中人あり
1、腹中書あり

 

※脇屋解説(今月はこの解説をします)

 

1、死中活あり(しちゅうかつあり)

「死角」という言葉がありますが、死角というのは、例えば、車のバックミラーを見るとき、目に写らない角度があるように、その範囲を「死角」と言います。だから、振り向いたりして、自分の目でしっかり確かめないで、バックミラーばかり当てにしていると大きな事故につながったりします。

このことを「死中に活あり」を当てはめて考えますと、バックミラばかり当てにしていると「事故」という危険な問題がはらんでいますが、自分の目で確認をするという行為を加えることで事故を未然に防ぐことができます。この「目で現実を確かめる」という行為が『活』であります。

『活』というのはこのように、人からは見えないところで「どれだけの努力をしているか」ということであります。人から見て「どうにもならない」と思っていることが、「どうにかなる」のは、人の目には見えないところでの努力という行為が、いざというときに「活力」となって顕現するわけです。

財力でもお金を貯めていることが、いざというときの『活力』になるのであります。

 

随筆

「長屋再生」

地下鉄緑地線の松屋町駅を下車して東南の三番出口からでて右に曲がると松屋タワーがある。一階はローソンの売店である。

昨年までは工事中であったが、今年の2月に完成した賃貸マンションである。以前は旧い店舗が居並んでいたが、いまは地上二十六階建の高層住宅ビル(松屋タワー)に変身をした。

昨年まではビルの左側は長い階段になっていたが、ビル新築と同時に階段は十三段になり、そこからは緩やかな坂道になっている。

上りきったところの左側に高津原橋が見える。この橋は今里から心斎橋に通じている長堀筋にかかっている橋である。ここから西に下ると心斎橋に通じている。私が子供の頃は、心斎橋の下は川であり多くの木材か浮んでいた記憶がある。

この橋に立って遠くを眺めていると遠い昔の大阪の町が見えるような気がする。第二次大戦での大阪空襲に遭い千日前から上六まで焼夷弾で焼け野原になった。私はこの被害にあった翌日、通天閣から千日前を通り抜けて上六まで歩いたことを思い出す。通天閣の前には焼け焦げた死体が山のように積まれていて、その前で合掌したこと、千日前に大劇という劇場が焼きただれ外壁だけが残されていたこと、などを思い出す。この空襲で多くの町が消失したが、ここ空堀は焼けなかった幸運の町である。

話は戻って、上りきった正面は三階建ての歴史を感じる古い木造の家屋がある。上の写真の門構えはその入り口に当たる。この場所はマスメディアで報道されてから、休日になると何処からとなく大勢の人々が集まってくる。この家屋の中には色々の小さな店があり、またアートイベントの開催などもあり、ネオンサインの街と違って日本、本来の個性が感じられる。一度はいってみても面白いところである。

 

菜根譚

菜根譚(199引用)

思い通りにならないことに気をかけすぎるな。

また、思い通りになってもむやみに喜んではならない。

いつまでも平穏無事であることをあてにするな。

また、最初から困難を思って気おくれするな。

 

変  化

世の中のリズムというものは、四季の移り変わりのように、一定の循環原理のな かで日々に変化をしているのである。

社会の現実をみてわかるように、世界経済が変化するごとに、各国の経済も色々な影響をうけ常に一定ではない。

日常生活も同じことで、他の影響によって生活にも大きな変化をもたらしている。会社が倒産して失職したり、昨日まで元気な人がマイケルジャクソンさんのように急に亡くなったりする。だから、「いつも大丈夫」なんて思って油断していてはいけないし、気おくれしてもいけない。

 

育成

子供は日進月歩のように刻々と成長を続けているのである。今日よりは明日、明日よりは明後日と肉体的にも精神的にも猛スピードで成長を遂げている。

従って、親もそのスピードに負けないようについてゆかないと意見が合わなくなってしまう。「昨日まで素直であったのに」「この頃は、親の言うことを聞かなくなった」と思う時期がありますが、それは子供が成長をしている証であって反発ではありません。

そんな時期は、子供の言い分を確り聞いてやれば、物事は簡単に解決をします。しかし、子供のいいなりになることではありません。

 

七月の心がけ

七月の心がけ

七月の干支は、辛未(かのと・ひつじ)であります。「辛」(しん)は、鋭い刃物を表わしている象形文字です。食品の味でいえば「辛}は“カライ”という意味で、舌をピリッと刺すように「からみ」のことをいい表わしています。

また人間社会の中で「辛」を考えると、辛苦、辛酸、辛艱、辛労、辛痛などの熟語があるように、「つらい」「むごい」「ひどい」「きびしい」等々の意味があり、日常生活のなかでは、辛には「辛抱する」という大意があるように思います。

さらに、「辛」には「新」という考え方がありまして、『史記』という書物には「辛は万物の辛生(新生)を言う」といわれているところから、辛には「物事を一新する」という解釈も成り立っています。

次に「未」の意味ですが、未の字は「木の上に短い一との合体」で成り立っています。これは、木が繁りすぎて周囲が見えなくなり、暗くなっている状態を表わしています。だから、未を「くらい」と読みます。また、未は「昧」と通じるといわれ「曖昧」(あいまい)という熟語があるように「物ごとがはっきりしない」ということになり、このように、「未」は「物ごとが曖昧で、はっきりしていない」ということになります。

そこで七月の心がまえですが「はっきりしないこと」は思い切って「切り捨てる」か、或いは十分話し合って筋道を明確に決めることが大事です。とに角、先ずは、個人なら家庭、事業なら業務内容のすべてに対して整理即ちいらないものは捨てる。必要なものだけ残して、残ったものを、優先順位よくに整頓をして整えていくことである。整理・整頓ができれば、旧来の悪習を取り除いて心機一転できるように「物事を一新する」ことが七月の重要課題であり、これが七月に実施しなければならない心構えであります。

こうした波動は、個人、事業に関らず、経済界、政界にも通じることであり、天地の動かざる道理として動いているのであります。