養生の心得

貝原益軒【養生訓より】
『調味料のこと』 

 

聖人は食にあたって醤がないと召し上がらなかったという。これは養生の道である。醤というの はひしお(もろみのようなもの)のことではなく、食物にくわえる調味料のことである。 具体的に例をあげると塩、醤油、酢、蓼、生姜、わさび、胡椒、芥子、山椒などそれぞれの食物にあう調味料がある。これをくわえるのはその食物の毒を制することになる。ただその味がよくなるからというばかりではないのである。

 

『中年と食事』
飲食の欲は朝夕に起こるので、貧乏なひとでも誤ることが多い。まして富貴のひとは美食するゆえに、度をこしやすい。とくに注意しなければならない。中年からのちは元気がへって、男女の色欲は次第に弱まるけれども、飲食の欲は衰えないものだ。老人は脾気が弱い。それゆえに飲食に傷つくことが多い。老人が病気になって急死するのは、ほとんどの場合は食傷(食あたり)である。大いに慎むべきであろう。

 

『新鮮な食物』
すべての食物は、みな新鮮な生気のあるものを食べるがよい。古くなって香りもわるく、色つやも味も変わったものは、みな気をふさいで、とどこおりやすい。食べてはいけない。

 

『好物を小量とる』
好物は脾胃が好むものであるから身体のおぎないになる。李笠翁も「本性はなはだすける(好む)物は、薬にあつ(当つ)べし」という。理にかなった言葉である。だが、好物といって食べすぎるとかならず傷ついて、嫌いなものを少し食べるよりもわるい。好物を少し食べるならば、大いに効果がある。

 

商人の知恵袋

『商人の知恵袋』

度量が広く物事にこだわらないたちで、決断力がある。人に優しく、神仏への信仰も篤い。人の意見はよく受け入れるが、金の貸し借りは絶対に認めない。何につけても機敏に対応し、反応がはやく活発であることを重視する。
(高島屋初代新七:家訓)

六中観

六中観(りくちゅうかん)

1、忙中閑あり
1、苦中楽あり
1、死中活あり
1、壺中天あり

1、意中人あり
1、腹中書あり

1、壺中天あり(こちゅうてんあり)

 

※脇屋解説(今月はこの解説をします)

 

これには故事がありまして、
『漢書』方術伝に、費長房という市役所の役人をしていた人が、ある日役所の二階から下を見ていると、露店商人が店を並べている。一老翁が夕方になって店をしまうのを見ていると、その老翁は後ろの城壁にかけてある壺の中に隠れて消えてしまった。それを見て、ああいうのが仙人だなと思って、翌日待ちかまえていて、老翁が店をたたむときに行って、「私は昨日、あなたが壺に消えたところを見たが、あなたは仙人だろう。

是非、私も連れて行ってほしい」強く頼み込んだ。では、ということになって、ふと気がつくと非常に景色の好い所へ出た、そこには金殿玉楼があり、その中へ案内されて大いに歓迎を受けて帰されたという話であります。

「壺中に天あり」とは、どんな境地にあっても、この話のように、自分だけの内面の世界がつくれることによって、すばらしい人生を送ることができることを教えた言葉です。例えば、文学の造詣があるとか、音楽・芸術に達しているとか、あるいは理念・信念が確りしている。または強い信仰心を持っているなどで、この俗社会を「壺中天あり」で切り抜け成功した方々は多く居られる。信念も含めて一芸に秀でることは大事なことであります。

 

人間学

“善とは何か”

 

二宮尊徳翁訓えより

 

師はこういわれた。儒教では、至善に止まるということを理想としている。仏教では衆善なすつもりで、そのするところは、みな違っている。

本来、善悪は円に終始がないように相対的なものだ。盗人仲間では盗むを善とし、人を傷つけても盗みさえすれば善とするだろう。しかし世の法は盗みを大悪とする。そのへだたりはこのようなものだ。天地自然の道の上では善悪の別はない。善悪は人間生活の上から決めたものだ。

例えば、草木のごとき、何の善悪があろう。それを人の立場、食物になるかならないかによって、米を善とし雑草を悪とする。天地にどうしてこの区別があろうか。雑草は生ずるのも早く育つのも早い。天地生々の道にしたがうことすみやかであるから、これを善草といってもいいだろう。米や麦のように人の力によって生ずるものは、天地生々の道にしたがうことを逆らうから、悪草といっていいだろう。

ところが、ただ食えるか食えないかをもって善悪を分けるのは、人の都合から出た一方的な見方ではないか。この道理を知らなければならない上下貴賎はもちろん、貸す者と借りる者、売る人と買う人、人を使う人と人に使われる人にあてはめて、よくよく考えてみなさい。世の中のすべての事がらはみな同じだ。あちらに善であればこちらに悪であり、こちに悪いことはあちらにはよい。

 

小学を学ぶ

蜀の先生がもう駄目だと知った時、その子の後主に勅した言葉に、

悪い事は小さなことであるからとて、してはならない。善い事は小さなことだからといって、それをしないようなことがあってはならない」とある。

諸葛孔明がその子を戒めた手紙に、

君子は、平静をもってその身を修め、倹素をもってその徳を養うのである。倹素でなければ、欲望が多く、心を淡泊さを失い、君子たる志を明らかに保つことができないし、心身の平静を失っては、遠大な事業を成し遂げることはできない。人は才能を学問によって磨かなければならず、学問には心の平静が必要であり、学問はそれによってのみ成就する。もし学問を怠り、心の落ち着きと平穏さを欠くならば、どうして、精妙な道理をきわめ、性格をりっぱにつくりあげることができよう。かくて、何一つ成しとげないうちに、いつしか年を取り、学問事業への意欲も年々に衰え、しまいには枯れ果てた一老骨となり、貧相な家屋にくすぶって、悲しみ嘆いてみたとて、間に合うものではない」とある。

 

※脇屋所見
「これ位のことは…」と思って、些細なことを見逃したり、見捨てたりしていると、やがては物事の崩壊につながる。善・悪の小さい事ほど見え難いので疎かにしてはならないことをの文面は戒めています。 ②の文面では、倹素、即ち、「倹約」「質素」に重点をおいて行動をしないと、大事業を達成させることはできないことを強く強調している。しかし、現在は生活上では平等になり、倹素の境界線が不明瞭な気がします。

しかし、考えなければならないことは、分相応ということである。家庭生活も、会社運営も人・モノ・金・に対して、自己の器の分限とそのバランスをよく弁えて事をすすめないと、物事は成功しません。

 

小学を学ぶ

「小学を学ぶ」

蜀の先生がもう駄目だ(死亡する)と知った時、その子の後主に勅した言葉に、
悪い事は小さなことであるからとて、してはならない。善い事は小さなことだからといって、それをしないようなことがあってはならない」とある。
諸葛孔明がその子を戒めた手紙に、
君子は、平静をもってその身を修め、倹素をもってその徳を養うのである。倹素でなければ、欲望が多く、心の淡泊さを失い、君子たる志を明らかに保つことができないし、心身の平静を失っては、遠大な事業を成し遂げることはできない。
人は才能を学問によって磨かなければならず、学問には心の平静が必要であり、学問はそれによってのみ成就する。もし学問を怠り、心の落ち着きと平穏さを欠くならば、どうして、精妙な道理をきわめ、性格をりっぱにつくりあげることができよう。
かくて、何一つ成しとげないうちに、いつしか年を取り、学問事業への意欲も年々に衰え、しまいには枯れ果てた一老骨となり、貧相な家屋にくすぶって悲しみ嘆いてみたとて、間に合うものではない
」とある。
 

※脇屋所見
「これ位のことは…」と思って、些細なことを見逃したり、見捨てたりしていると、やがては物事の崩壊につながる。善・悪の小さい事ほど見え難いので疎かにしてはならないことをの文面は戒めています。
の文面では、倹素、即ち、「倹約」「質素」に重点をおいて行動をしないと、大事業を達成させることはできない
ことを強く強調している。しかし、現在は生活上では平等になり、倹素の境界線が不明瞭な気がします。
しかし、考えなければならないことは、分相応ということである。家庭生活も、会社運営も人・モノ・金・に対して、
自己の器の分限とそのバランスをよく弁えて事をすすめないと、物事は成功しません。

 

 

随筆

090804.jpg

「サッカーと孫」

 

圭志君、これは私の孫である。
小学6年であり今のところサッカーを志しているようだ。

 

7月25日万博記念グランド(大阪ガンバのグランドでもある)で箕面のチームと吹田のチームが決勝戦をするということで観戦に行った。目的は孫である彼が、吹田チームに所属していてポジションはキーパーをつとめるというので、彼の父親である息子が、私の入場チケットも用意してあるということで行くことになった。入場は有料である。というのは、少年の競技が終わるとその後に、プロのサッカーチームである。大阪ガンバーと大分チームとの対戦があるからだという。「なるほどなァ…」と納得しながら息子が運転する車で会場に向かっている。

目的場所に着いたのは16時半頃である。開場は17時半というから1時間は待たなければならない。でも、すでに大勢のフアンが押しかけて所定の枠内に列をなして並んでいる。フアンといっても少年達のフアンではない。勿論、ガンバー大阪のサポータたちである。ほとんどのサポータたちは、自分好みの選手なのであろう、選手名の入ったサッカー服を着用している。

競技時間が来た。孫がプロと同じように一人前の着装をしてゴール網の前にキーパーとして立っている。芝生のあるグランドで試合をすることが始めてという。決勝戦にまで勝ち進んできたチーム全員の努力の賜物である。

ここまで勝ち進んできた吹田チームに賞賛をおくりたい。その孫の結果に対して私は、今ここに観戦して居るのであると思う。

 

圭志君が、これからの練習を人よりも数倍の努力を積み重ねることができれば、中学、高校と、サッカー青春を通して最高のサッカー人生につなぐことも夢ではない。

ただ、強い意志力が持続できるか、…に応援をしたいと私は思っている。

 

菜根譚

『菜根譚』(201引用)

世俗の人は、心が満足することを楽しみとするので、かえって、その楽しみを求める心のために苦しみに引きこまれる。

(これに反し)

道に達した人は、苦しみにうち勝つことを楽しみとするので、結局、苦しみのおかげで楽しみを手に入れる。

 

「苦しみに勝つ」

「苦しみにうち勝つ」という意味は、妊婦が苦しみを乗り越えて赤子を誕生する。

ということが、最も適正な解釈である。苦しんで、苦しんで頑張って来たのに 失敗するのは「苦しみ方」が間違っているのである。「身勝手な苦労はだめだ」と,私は人々に教えるが、苦労というものは、自分に都合のよいことでは、たとえそれがよいことであっても、たいした結果は得られないものだ。

家族や他のために役立ち、また会社や組織、社会のために役立つ苦労という善行は、そのおかげで、必ず、分相応の楽しみが与えられるものである。

解説:脇屋

 

育成

“親子の会話”

親子の会話は重要な教育の過程である。
例えば、夕食がすんだ後、「今日は何か好い事があった…」とか嫌なことはなかった…」などと、会話のきっかけをつくることは親の役目のよなものである。

幼いときから、こうした習慣を身につけさせていると、学校に行くようになっても、子供は毎日のように「聞いて、聞いて…」とうるさいほどに言うようになる。でも、「うるさい」と思わないで子供の話しを真剣に聞いてやる。こうした家庭環境をつくっておけば、子供は思春期も親との会話の中で順調に成長を遂げることができる。

 

八月の心がけ

「八月の心がけ」

 

八月の干支は、壬申(みずのえ・さる)であります。

「壬」(じん)は、「任にして、陰陽交わって懐胎なす意。このとき天が一水を生ず」と説かれています。

要訳すると、壬とは任ということで、任という意味は「陰陽交わって懐胎」とあるように、男女が結ばれて妊娠することで、『壬は、任であり、任は妊である』といという意味であり、また「任」には元々「はらむ」という解釈があり「天が一水を生ず」即ち、妊娠して新しい生命が誕生するというのが「壬」の大意であります。

 

 八月には衆議院選挙が実施されますが、国政の行方は何処に落ち着くのでしょうか、まさに「壬」の新しい生命誕生の時期に奇しくも適っています。しかし、政治とはどういう事なのかをこの機会に熟慮しなければなりません。

『五行大義巻』第四の第十九に“治政を論ず”という項目がある。その内容を挙げてみると「治政の治とは治めるということで、物ごとが秩序正しく行われることである。政とは正すということで、邪でないことを政というのである。」と、しかし、これを実行するためには、君主を立てて民衆を導き治めさせる。また善き指導者を選んで人々を正しい方向に導くことが政治であると論じている。

 この内容をよくみてみると、最初は「治政」についての理念を説いていますが、人々によって首長が選ばれて物事を治める場合になって、初めて「治政」がひっくり返って「政治」になっていることに大きな意味を感じます。

孔子は「政治をするに道徳によって行えば、北極星が動かないでその場所にいて、多くの星がそれを中心に運行するように、人々はすっかり為政者に帰服する」と教訓されています。

八月の心得は、首長の立場にある者、また、将来指導的地位を目指している者は、私心・野心・私欲だけの虜にならないように、常に克己の精神と、治政の精神に磨きをかけるように勤めることであります。