“善とは何か”
二宮尊徳翁訓えより
師はこういわれた。儒教では、至善に止まるということを理想としている。仏教では衆善なすつもりで、そのするところは、みな違っている。
本来、善悪は円に終始がないように相対的なものだ。盗人仲間では盗むを善とし、人を傷つけても盗みさえすれば善とするだろう。しかし世の法は盗みを大悪とする。そのへだたりはこのようなものだ。天地自然の道の上では善悪の別はない。善悪は人間生活の上から決めたものだ。
例えば、草木のごとき、何の善悪があろう。それを人の立場、食物になるかならないかによって、米を善とし雑草を悪とする。天地にどうしてこの区別があろうか。雑草は生ずるのも早く育つのも早い。天地生々の道にしたがうことすみやかであるから、これを善草といってもいいだろう。米や麦のように人の力によって生ずるものは、天地生々の道にしたがうことを逆らうから、悪草といっていいだろう。
ところが、ただ食えるか食えないかをもって善悪を分けるのは、人の都合から出た一方的な見方ではないか。この道理を知らなければならない上下貴賎はもちろん、貸す者と借りる者、売る人と買う人、人を使う人と人に使われる人にあてはめて、よくよく考えてみなさい。世の中のすべての事がらはみな同じだ。あちらに善であればこちらに悪であり、こちに悪いことはあちらにはよい。