『恩に報いることを心得れば、何事も思うままになる』 (二宮尊徳翁の訓えより)
師はこういわれた。『孝経』に、「孝弟の極に達すると、鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、感化を受けないところはない。東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」とある。この語の解釈をある世俗的な儒者がなした説は、何のこととも理解しがたい。今、わかりやすく説明すればこういうことである。
そもそも孝とは、親の恩に報いる勤めであり、弟とは兄の恩に報いる勤めである。すべて世の中は、恩に報いなければならない道理をよくわきまえれば、何事も心のままになるものである。恩に報いるというのは、借りた物は礼を述べて利息を添えて返し、世話になった人にはよく感謝をあらわして、買い物の代金はすみやかに払い、日雇い賃は日々払うということである。
すべて恩を受けたことをよく考えて、よく報いるときには、世界の物は、実にわが物と同じく、何事も欲するとおり、思うとおりになる。ここにいたって、「鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」となるのである。ところがある歌に、
“三度たく飯さえこわしやわらかし 思うままにはならぬ世の中”
とある。これは全く違っている。これは勤めることも知らず、働くこともせず、人の飯をもらって食う者が詠んだに違いない。そもそも世の中は前にも述べたように、恩に報いることをよく心得れば、何事も思うようになるものである。それなのに思うようにならないというのは、代金を払わないで品物を求め、種を蒔かずに米を収穫しょうと願うからだ。この歌の初句を「おのがたく」と直して、自分自身のことにすればよかろうか。