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人間学

二宮尊徳翁の訓へ

循環の道理

師はこういわれた。この世界で咲く花は必ず散る。散るといってもまた春が来れば必ず花が咲く。春に萌え生ずる草は必ず秋風に枯れる。枯れるといってもまた暖かい風にあえば、必ず芽を出す。

万物みなこれと同じである。それゆえに無常といっても無常ではない。有常とはいっても有常ではない。 種だと思っているうちに草となり、草だと見ているうちに花が咲き、花が咲いたと見ているうちに実となる。実と思う間にまたもとの種となる。

だから種となったのが本来なのか、草となったのが本来なのか、これを仏教では不止不転の理といい、儒教では循環の理という。万物すべてこの道理にはずれることはない。

 

滅亡の原因は内にある

師はこういわれた。暴風で倒れた松、虫くいの穴に雨露が入りこんですでに倒れそうになっていた木である。大風でこわれた垣根も、もともと杭は朽ち縄は腐っていて、いまにもこわれそうな垣根だったのだ。

そもそも風は平等均一に吹くもので、松を倒さんとことさらに吹くわけではなく、垣根をこわそうと特別に吹くわけではない。風がなくとも倒れるべきところに、風が吹いて倒れ、破損したのである。天下のことはみなそうだ。鎌倉幕府の滅亡も、室町幕府の滅亡も、人の家の滅びるのもみな同じである。

 

六中観

六中観(安岡正篤著書より)

1、忙中閑あり
1、苦中楽あり
1、死中活あり
1、壺中天あり
1、意中人あり
1、腹中書あり

 

※脇屋解説(今月はこの解説をします)

 

1、死中活あり(しちゅうかつあり)

「死角」という言葉がありますが、死角というのは、例えば、車のバックミラーを見るとき、目に写らない角度があるように、その範囲を「死角」と言います。だから、振り向いたりして、自分の目でしっかり確かめないで、バックミラーばかり当てにしていると大きな事故につながったりします。

このことを「死中に活あり」を当てはめて考えますと、バックミラばかり当てにしていると「事故」という危険な問題がはらんでいますが、自分の目で確認をするという行為を加えることで事故を未然に防ぐことができます。この「目で現実を確かめる」という行為が『活』であります。

『活』というのはこのように、人からは見えないところで「どれだけの努力をしているか」ということであります。人から見て「どうにもならない」と思っていることが、「どうにかなる」のは、人の目には見えないところでの努力という行為が、いざというときに「活力」となって顕現するわけです。

財力でもお金を貯めていることが、いざというときの『活力』になるのであります。

 

随筆

「長屋再生」

地下鉄緑地線の松屋町駅を下車して東南の三番出口からでて右に曲がると松屋タワーがある。一階はローソンの売店である。

昨年までは工事中であったが、今年の2月に完成した賃貸マンションである。以前は旧い店舗が居並んでいたが、いまは地上二十六階建の高層住宅ビル(松屋タワー)に変身をした。

昨年まではビルの左側は長い階段になっていたが、ビル新築と同時に階段は十三段になり、そこからは緩やかな坂道になっている。

上りきったところの左側に高津原橋が見える。この橋は今里から心斎橋に通じている長堀筋にかかっている橋である。ここから西に下ると心斎橋に通じている。私が子供の頃は、心斎橋の下は川であり多くの木材か浮んでいた記憶がある。

この橋に立って遠くを眺めていると遠い昔の大阪の町が見えるような気がする。第二次大戦での大阪空襲に遭い千日前から上六まで焼夷弾で焼け野原になった。私はこの被害にあった翌日、通天閣から千日前を通り抜けて上六まで歩いたことを思い出す。通天閣の前には焼け焦げた死体が山のように積まれていて、その前で合掌したこと、千日前に大劇という劇場が焼きただれ外壁だけが残されていたこと、などを思い出す。この空襲で多くの町が消失したが、ここ空堀は焼けなかった幸運の町である。

話は戻って、上りきった正面は三階建ての歴史を感じる古い木造の家屋がある。上の写真の門構えはその入り口に当たる。この場所はマスメディアで報道されてから、休日になると何処からとなく大勢の人々が集まってくる。この家屋の中には色々の小さな店があり、またアートイベントの開催などもあり、ネオンサインの街と違って日本、本来の個性が感じられる。一度はいってみても面白いところである。

 

菜根譚

菜根譚(199引用)

思い通りにならないことに気をかけすぎるな。

また、思い通りになってもむやみに喜んではならない。

いつまでも平穏無事であることをあてにするな。

また、最初から困難を思って気おくれするな。

 

変  化

世の中のリズムというものは、四季の移り変わりのように、一定の循環原理のな かで日々に変化をしているのである。

社会の現実をみてわかるように、世界経済が変化するごとに、各国の経済も色々な影響をうけ常に一定ではない。

日常生活も同じことで、他の影響によって生活にも大きな変化をもたらしている。会社が倒産して失職したり、昨日まで元気な人がマイケルジャクソンさんのように急に亡くなったりする。だから、「いつも大丈夫」なんて思って油断していてはいけないし、気おくれしてもいけない。

 

育成

子供は日進月歩のように刻々と成長を続けているのである。今日よりは明日、明日よりは明後日と肉体的にも精神的にも猛スピードで成長を遂げている。

従って、親もそのスピードに負けないようについてゆかないと意見が合わなくなってしまう。「昨日まで素直であったのに」「この頃は、親の言うことを聞かなくなった」と思う時期がありますが、それは子供が成長をしている証であって反発ではありません。

そんな時期は、子供の言い分を確り聞いてやれば、物事は簡単に解決をします。しかし、子供のいいなりになることではありません。

 

七月の心がけ

七月の心がけ

七月の干支は、辛未(かのと・ひつじ)であります。「辛」(しん)は、鋭い刃物を表わしている象形文字です。食品の味でいえば「辛}は“カライ”という意味で、舌をピリッと刺すように「からみ」のことをいい表わしています。

また人間社会の中で「辛」を考えると、辛苦、辛酸、辛艱、辛労、辛痛などの熟語があるように、「つらい」「むごい」「ひどい」「きびしい」等々の意味があり、日常生活のなかでは、辛には「辛抱する」という大意があるように思います。

さらに、「辛」には「新」という考え方がありまして、『史記』という書物には「辛は万物の辛生(新生)を言う」といわれているところから、辛には「物事を一新する」という解釈も成り立っています。

次に「未」の意味ですが、未の字は「木の上に短い一との合体」で成り立っています。これは、木が繁りすぎて周囲が見えなくなり、暗くなっている状態を表わしています。だから、未を「くらい」と読みます。また、未は「昧」と通じるといわれ「曖昧」(あいまい)という熟語があるように「物ごとがはっきりしない」ということになり、このように、「未」は「物ごとが曖昧で、はっきりしていない」ということになります。

そこで七月の心がまえですが「はっきりしないこと」は思い切って「切り捨てる」か、或いは十分話し合って筋道を明確に決めることが大事です。とに角、先ずは、個人なら家庭、事業なら業務内容のすべてに対して整理即ちいらないものは捨てる。必要なものだけ残して、残ったものを、優先順位よくに整頓をして整えていくことである。整理・整頓ができれば、旧来の悪習を取り除いて心機一転できるように「物事を一新する」ことが七月の重要課題であり、これが七月に実施しなければならない心構えであります。

こうした波動は、個人、事業に関らず、経済界、政界にも通じることであり、天地の動かざる道理として動いているのであります。

 

養生の心得

貝原益軒【養生訓】より

 

食べてはいけない食物

すえた臭いのする飯、古い魚、ふやけた肉、色香のよくないもの、よくない臭いもの、煮てから長く時間がたったものは食べてはならない。また朝夕の食事のほかに間食することはきわめてわるい。
また早すぎて熟していないもの、あるいはまだ熟していないものの根を掘り出して芽のところを食べることや、時期がすぎて盛りを失ったものなどは、いわゆる時ならぬものであるから食べてはいけない。
これは『論語』にもある言葉で、聖人は決して食されなかった。聖人は身を慎まれてもっぱら養生をされたのである。法として模範とすべきであろう。また肉は多く食べても飯の気に勝たせないようにするとも述べている。とにかく肉を多く食べることはいけない。

食事は飯を中心にして、どんな食べものでも飯より多く食べると身体をわるくする。

 

副食は少なめに 

飲食するうちで、飯を十分に食べないと飢えをいやせない。吸物は飯をやわらげるだけである。肉は飽きるほど食べなくても不足しない。少し食べて食を増進し、気を養わなければならない。野菜は穀物や肉類の不足をおぎなって消化を助ける。すべて食べる理由がある。が、食べすぎることがいけないのはいうまでもない。

 

穀物と肉類 

ひとの身体は、元気をもとにしている。穀物の養分によって、元気は生成しつづける。穀物や肉類をもって元気を助けなければならない。とはいうもののそれらを食べすぎて元気をそこなってはならない。元気が穀肉に克てば命は長いし、穀肉が元気に克つと短命になる。古人は「穀は肉にかつべし、肉は穀にかたしむべからず」という。

 

六中観

六中観(りくちゅうかん)


一、忙中閑あり

一、苦中楽あり

一、死中活あり

一、壺中天あり

一、意中人あり

一、腹中書あり

 

※脇屋解説(今回はこの解説をします)

 

一、苦中楽あり(くちゅうらくあり)

「苦労する中に、すでに楽が存在している」という意味であります。言いかえると苦労と楽しみというものは、別々のものではないということです。

花に例えると『種』の中には花が咲くという結果が具わっているから種を蒔きます。

春に種を蒔き、または苗などを植えて、花を咲かせたり秋には実を収穫したりするのは、種や苗に花が咲き、果実がなるという結果が分っているから努力をいたします。でも、時には失敗したり、大自然の風雨によって破壊されたりする場合もあります・・・

これと同じことで『苦』という種の中には「楽」または「幸せ」という花が咲く要素を具えていることを知っていなければいけない。と言うことを教えたのが「苦中に楽あり」ということです。

従って、物事を起こしたからには、花が咲き実が成るまで、我慢して努力しなければいけない。もし、時期が来たのに花が咲かない、実が成らないということがあれば、それは、土が悪かったのか、肥料のせいか、種に対する土などの環境が整っていないのか、手入れが悪いのか、等々を検討して花が咲き果実ができるように改善工夫が必要となります。

このように、事業も人生も全く同じことでありますから、物事は達成するまで諦めてはなりません。

 

人間学

二宮尊徳翁の訓えより

 

水門を閉じて分水を争う

『師はこういわれた。財宝を生み出して利を得るのは農工であり、財宝を運用して利を得るのは商人である。財宝を生み出し運用する農工商を勤めないで、しかも富裕を願うのは、たとえば水門を閉めて分水を争うようなもので、智者のすることではない。

それなのに世間で智者と呼ばれる者のすることを見ると、農工商を勤めずに、ただ小智恵や悪知恵を働かして財宝を得ようとする者が多い。これは誤っており、しかも迷っているといえるだろう。』

 

あぶない身代と手堅い身代 

『師はこういわれた。千円の資本で千円の商売をするときは、ほかから見てあぶない身代という。千円の身代で八百円の商売するときは、ほかから見て小さいけれど堅い身代という。この堅い身代といわれるところに、味わいもあり益もある。それを世間は百円を元手にして、二百円の商売をする者を働き者という。大いなる間違いだ。

脇屋意見

『この手堅い商売』には異論があると思う。いまの社会での商売の仕方は、少ない資本をいかに活用して利益を上げるか・・・と思っている方が多いのではないかと思われる。しかし現実は、出店したかと思うと三年も経たない内に閉店したり、最近倒産件数が増え続けている。これは正に千円の身代で千円以上の商売をしているから、歯車が一つ狂えばガタガタと崩れてしまうのである。

だから、現代風にいう手堅い運営とは、経理上でいうならば、毎日、或いは毎月の自店または自社での経営損益分岐点を確り把握して勤めることを守ることが大事である。

 

小学をまなぶ

陳忠粛公の語に、小学(嘉言第五)より

「学問に志す少年は、まず人間の上等と下等とを区別し、何が最高の上等の人、すなわち聖人賢者のすることか、何が最下の下等の人、すなわち下愚のすることであるかを見きわめて、自己の中にある下等の劣悪な要素を取り去り、善い要素を取り入れていかなければならない。これが少年の最も先に心がけることである。 

このように志を高くもち、上等の人のやり方を学べば上等の人に近づくが、もし志を高くもたないなら、平凡なつまらないことしか学べない。すなわちこのような少年は話が顔回や孟子のこととなると、柄でもないことであるとしりごみし、自分のような少年に、どうして顔子・孟子のような大賢人を学ぶことができるものかと考える。

このようなものには、上等の人のことは話しても駄目である。先生や徳行のすぐれた人々はこれを相手としない。これらの人々が相手としてくれなければ、相手になるのは、下等の人だけとなる。下等の人は発言に忠信を欠き、行為に篤敬がない。過っても悔いることができず、またそれを率直に改めることができない。これらの下等の人を相手とし、下等のことばと下等のことの中にいるのは、家の中にすわり、その周囲をみな堀や壁で取り囲まれたのと同じで、下等のことの外は何も分らない。目を開き、心を明らかにしたいと思ったとしてもできる筈がない、とある。

 

※注:

上等=上の等級のこと、最もよいこと、を意味しているのであって、貧富の差を言ってるのではない

下等=段階が低いこと、いやしいこと、を意味しているのであって、貧富の差を言ってるのではない

 

※脇屋釈

『朱に染まれば紅くなる』という格言があるように、人間は、関る相手次第でどのようにも変化してゆくものである。人柄をみるときは、「その人が付き合っている知人や友人を見れば大体の判断がつく」

と云われているように、子供の成長はその友達を見る。事業の成長はトップの付き合う相手で決まる。といっても過言ではない。