“しつけ”
「それでもあんたは親なのか」といわれる親たちが多いといわれる。「幼児虐待」という聞き辛い文字や言葉を時折見たり聞いたりする。
聞きわけがないからといって暴力を加えて死に至らしめる実例もある。どうしたことかと統計をみると、こうした親は仕事をもっている人に多いようだ。
子供の「しつけ」は幼児期が最も大事であるから、幼児期はできる限り、子供をしっかり抱きしめて、溢れるような愛情の中で育てることが「しつける」上で、最も大切なことである。
“しつけ”
「それでもあんたは親なのか」といわれる親たちが多いといわれる。「幼児虐待」という聞き辛い文字や言葉を時折見たり聞いたりする。
聞きわけがないからといって暴力を加えて死に至らしめる実例もある。どうしたことかと統計をみると、こうした親は仕事をもっている人に多いようだ。
子供の「しつけ」は幼児期が最も大事であるから、幼児期はできる限り、子供をしっかり抱きしめて、溢れるような愛情の中で育てることが「しつける」上で、最も大切なことである。
五月の心がけ
五月の干支は、己巳(つちのと・み)である。
「己は、紀(すじみち)である。物が始めて成就した時には、そこにすじめがある。」と五行大義にあり、また鄭玄は「戊とは茂ることであり、己とは、起こることである。万物はみな枝葉を繁茂させ、その中で、特に秀でたものは、抑えられていても起き上がることを言うのである」と解説しています。
「巳は、巳(やめる)である。もとの体がここで洗い去られ、すでに竟(おわ)ってしまうのである。 また「巳は起(おこる)である。ものがこの時になってみなことごとく起こるのである」と三礼義宗にある。
この上記の中で先に理解してほしい言葉がある。上二行目に、「竟」(おわる)という字があるが、この意味は単に終わってしまった。ということではなく、春夏秋冬の四季のように春がおわっても夏に向かい…また春が来るといった循環性の内容であることを理解をしてください。
さて、五月の心得ですが、今の社会情勢から考えてみたいと思いますが、日本は今年は のマイナス成長率である発表され、米国や欧州各国から比べて、一番悪い状況のようです。このことに世界の評論家は、日本は独自の政策をもっていないからだと……独自性がないというか、独立性がないというか、このように思われているのが現状のようであります。
政治、経済、企業、個人も、それぞれの立場に立って五月にやらなければならないことは、五月で、今抱えている問題のすべては竟(おわ)ることです。竟(おわ)る前に、ムダなこと、ムリなこと、ムラを無くして整理整頓することが重要です。五月中にこうして、植木でいうなら、時が来たらムダな枝葉を切り払うように、「今その時」が来たのです。そして、次へと大きく飛躍できる思考・計画・実施へと連携し自然の気流に循環しなければなりません。
人力には限界があり、究極は天地の理法によって社会は動かされていることを自覚することが大事でしょう。
『過酒食と薬』
酒食をすごして腹痛になったときは、酒食を消しさる強い薬を用いないと酒食を消化できないものだ。たとえば、敵軍がわが領内に乱入し、戦をいどみ、城を攻め破ろうとした。そのとき、こちらからも強兵を出して防戦し、敵に勝つためには味方の兵士も多く討ち死にしないと勝てないようなものである。さながら、薬を用いて食物を消化させるのは、自分の腹中を敵味方の戦場にするのと似ている。
飲食した酒食が敵と化して、わが腹の中を責め破るのみでなく、自分が用いた強い薬も、みな病気を攻撃しようとするから元気をへってしまう。敵も味方もわが腹中で乱戦し、元気をはなはだしくへらす。
敵を自分の領内に引きこんで戦うよりは、領外で防ぎ、侵入させないことがもっともよい。酒食をすごさないでひかえめにすれば、敵にはならない。強い薬を用いてわが腹中を敵と味方の合戦場にすることは、胃の気をそこなってしまう。残念というほかはない。
『夕食は軽く』
夕食は朝食よりもとどこおりやすくて消化しにくい。だから夕食は少ないほうがよい。軽い薄味のものを食べるがよい。夕食に副食物の数の多いのはよいことではない。副食物を多く食べるのは禁物である。
魚や鳥などのように味が濃く、脂肪が多くおもいものは夕食にはわるい。菜類も、山芋、人参、白菜、芋、くわい、などの品は、とどこおりやすく気をふさぐものだから、夕食に多く食べてはいけない。食べなければそれがもっともよい。
『持病と食べ物』
すべての宿疾を起こすものを書きとどめて決して食べてはいけない。宿疾とは持病のことである。食べてその場で害になるものがあり、また時を経て害になるものもある。即時に害にならないからといって食べてはならない。
『知らず」という言葉の意味』
師はこういわれた。『論語』には、孔子に質問すると、孔子が「知らず」と答えていることがしばしばある。これは知らないのではない。教えるべき場合でないときと、教えても益がないときがあるからである。今日、金持ちの家に借金を申し込むと、先方が「折あしく持ちあわせがありません」というのと同じである。「知らず」ということに大きな味わいがある。よく味わってその意味を理解すべきだ。
『理屈に合わないのが真理』
師はこういわれた。哀公が孔子の弟子の有若に、「飢饉で国の費用が不足だが、どうしたらよかろうか」と尋ねた。有若は「どうして十分の一の税法をなされないのですか」と答えた。これはおもしろい道理である。
私はいつもこういって人を諭している。一日に十銭取って足りなければ九銭取るがよい。九銭取って足りなければ八銭を取れ、と。人の身代は多く取ればますます不足が生じ、少なく取っても不足はないものである。これは理屈に合わないが真理だ。
『大極・無極の論』
師はこういわれた。儒教の大極・無極の論がある。思慮の及ぶのを大極、思慮の及ばないのを無極といっただけだ。思慮が及ばないからといって無とはいえない。遠海に波なし、遠山に木なしといっても、ないわけではない。自分の眼力が及ばないだけのことで、これと同じである。
『孔子の言葉に、士(学問をする者)たるものが道を学ぶことを志しながら、自己の粗衣・粗食を人前で気にかけるようでは、とても道について話し合うわけには行かない。』
小学「嘉言第五」
※解釈:肯じない(がえんじない)=承知しない
『張横渠先生の語に、
「子供の教育には、まず落ち着いて、物事の取り扱いをていねいにし、態度をうやうやしく、心につつしみの多いようにと教えるのが肝要である。近ごろは正しい学問が行われず、男女とも、幼児から驕惰の習慣がついてだめになり、成長するに従って、ますます無軌道乱暴になっていく。
すなわち、少年時代に長上に仕える作法を学ばないので、親に対してすでに被我が対立の思想があり、自我を固執して親に従うことを肯じない。驕惰の病はこのように幼時に根を生じ、それが環境に従ってますますひどくなり、一生涯癒らないことになるのである。』
(張横渠先生の言葉のつづき)
『人の弟子として子弟の仕事である掃除や賓客への応対などを嫌がり、朋友と交わるにはこれにヘり下ってその益を求めることが出来ず、役人となっては、その官の長たる人の命令に従えず、宰相となっては、天下の賢者に敬意を表してその忠告を聴くことが出来ない。
更に甚だしいものは、自己の意のままに振舞って、正しい道理など一切かまわないようになるのは、皆この驕惰という病根がとれずその病が居る所、接する所に随って益々ひどくなるためである』とある。
天王寺から天満橋に通じている道路が谷町筋と称している。この谷町筋の下は、地下鉄が運行され天満を経て東梅田駅に通じている。
この谷町筋の七丁目の交差点から約百メータほど歩くと、谷町筋をはさんで空堀商店街が右側と左側に分かれてお店が居並んでいる。七丁目から向かって右側の商店街は上町筋に通じ、左側の商店街は松屋町筋に通じている。
この環境をみて考えられるのは、昭和の初期頃にはおそらく谷町筋がなくて、空堀商店街はひとつの道路としてつながり、その両側にお店が並んでいたに違いない、と、ちょっと想像してみるのも面白い、歴史を紐解けば直ぐにわかることではあるが、と、思いながら考えていた。
この左側の商店を五十メータほど進むと、下り坂になっている。こんな坂道に店舗が並んでいるのは、お寺かお宮などの参道以外には考えられない環境であるが、いつも多くの人々で賑っているから不思議である。
でも、何軒かの老舗と思われるような店は今も健在のようではあるが、厳しい社会経済の昨今では、何回も入れ替わる店舗があり経営の難しさを表わしている。「昔は良く売れて、いつもお客さんが並んでいたが下にスーパーができてから、お客さんが上ってこなくなり、昔は三人雇用していたが今は一人ですわ……」と時代の変化を物語る店主に出会った。
空堀商店街は戦火に遭わなかった商店街として大阪では有名場所の一つであるだけに、いつまでも元気にあってほしいものである。
中国古典『菜根譚』(196引用)
※橙橘=だいだいとみかん
『日がすでに暮れても、なお夕映えは美しく輝いているし、年の暮れに当たっても、橙橘のたぐいは一段とよい香りを放っているではないか。
そこで、晩年に際しては、君子たるもの、一段と精神を振い立たせて最後を飾るがよい。』
『整理・整頓・後始末』 解説:脇屋
何事も締めくくりは大切である。一年間の自分のこと、家庭のこと、仕事のこと、を整理(いらないものを捨てる)して必要なものだけを整頓(事象ごとにまとめる)しなければいけない。
さらに、どの問題に対しても一応の締めくくり(後始末)をしておくことも重要である。年が明けて、この問題は「ここから」と、出だしを明確にしておくことも年の瀬の行事である。12月は、一段と精神を振い立たせて、整理・整頓・後始末をすることである。
『「バカになるまい」という詩』
テストでいつもよい点ばかりとっている人が
必ずしも賢い人とはいえない
そういう人のなかにも
案外たくさん バカな人がいる
テストでどうしてもよい点のとれない人が必ずしもバカな人とはいえない
そういう人のなかにも
たくさん
おがみたくなるような尊い偉い賢い人がいる
せっかくいただいたただ一度の
かけがえのない自分の人生
二度いただけない大切な自分の人生
それを自分で汚しダメにし
台なしにしてしまう人
こんな人は
いくら頭がよくたってバカだ
『感謝で終えよう』
師走である。一年のしめくくりを感謝で終わってほしいと思っています。十一ヶ月が過ぎ十二月は、しめくくりの月であるが、十一ヶ月過ごさせていただいたことに先ず感謝することが大切であります。
「感謝」という言葉について考えてみますと、「咸」という字は、「天地」とか「つづく」という意味があり、所謂、変わることのない宇宙に存在する原理原則と不変の道理のことであります。即ち「つづいて変わりのない道理」ということであります。
「咸」の下に「心」を合体させると「感」という字が形成されます。感とは、天地の道理に叶ったことに出合うと心が大きく動きます。「感動」とか「感激」という言葉のように、正しいことに出あうと、心が激しく揺れ動くことになります。或いは、講演を聞いて感動を覚えたり、音楽を聞いて感激したりするのは、自分の人生と交差する部分があったりすからであります。また、自分自身が、知らず知らずに、正しい道理に照らし観て講演を聴いているときには、気分がその域に達したときは感動することになります。
「感応同響」という仏教用語がありますが、これは、物事を感じるときの状態を表わしたものです。例えば、電話をかけようとします。そのときは、相手が居て、電話があり、自分が居る、という三つの条件が整っているからであります。もし、相手が留守であれば目的は果せません。このように物事を感じるということは、必ずこの三つの条件が整っているときであります。
そこで「感謝」でありますが、感謝ということは必ず相手があるということです。それに応えるには「謝」の字を見ると「言」と「身」がありますから、言葉に出したり、または、身、即ち行動で表現することを教えています。感謝とは「心で感じた」だけではダメで、言葉や行動で応じなければ十分ではありません。
十一ヶ月を振り返って、少しでも感謝しなければならない方々に対して、メールではなく、手紙でも書いてみては如何でしょうか、きっと、素晴らしいしめくくりとなることでしょう。
貝原益軒【養生訓】より
『夜食の法』
夜食する習慣のひとは、日が暮れてからまもなく食べるがよい。夜更けになって食してはいけない。酒食の気がよく循環し、消化したあとに寝るのがよい。消化しないままに早く寝ると病気になる。
夜食しないひとでも、夕食後に早く寝てはいけない。早く寝ると食気がとどこおり病気になる。とにかく夜は活動するときではない.だから飲食しないで少しは空腹でも害はない。やむなく夜食をしなければならないときは、、なるべく早く、しかも少し食べるがよい。
夜酒は飲まないがよい。もし飲むとしても夜食と同様に早くして少しがよいのはもちろんである。
『食と栄養と』
世間では食を制限しすぎると栄養不足でやせてしまう、という。これは養生を知らないひとのいうことである。欲が多いということは人間の本性であるから、制限しすぎると思われるくらいが適当になるのである。
『腹七、八分の飲食』
飲食物に出あうと、食べたいという心が強くなって食べすぎても気づかないのは、いわゆる一般の人びとの習性である。酒、食、茶、湯など適量と思うまえに、腹七、八分のひかえめにして、いま少し不足だと思われるときにやめるのがよい。飲食がすんでからかならず腹十分になるものだ。
食べているときに十分だと思うほど食べると、食後はかならず腹がふくれすぎて病気になるのである。