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人間学

『よく自戒して下流にいてはいけない』

師はこういわれた。子貢の言に、「紂王の不善もこれほどひどいわけではない。だから、君子は下流にいるのを憎むのだ。天下の悪がみなその一身に帰してしまうからだ」とある。

「下流にいる」とは、心の下がった者とともにいることをいう。そもそも紂王も天子の友とすべき者、すなわち上流の人のみを友としていれば、国を失い悪名をはせることもなかっただろうに、婦女子や心がねじけている者のみを友としたために、国は亡び、悪名がその身に帰したのである。

これはただ紂王だけがそうなのではない。人々はみな同じである。つねに太鼓持ちや三味線引きなどとばかに交わっていれば、たちまち滅亡にいたることは間違いない。

それもごもっとも、これもごもっともとへつらう者とばかり交わっていれば、正宗の名刀といえども、腐れて用に立たないようになろう。

子貢はさすが孔子の門人のなかでも高弟である。紂の不善もこれほどひどいわけではないといって、この故に君子は下流にいることを憎むのである。と教えたのだ。 必ずしも紂の不善も後世に伝わるほどひどかったのではあるまい。お前たちも、よく自戒して下流にいてはいけない。

 

※脇屋注釈 

下流とは、立場の上下とか貧富のことではありません。毎日の生活や仕事をする中で行動を起こすとき、道理に叶った理念をもって、正しい立居振舞いをしているかということで、いいかえると社会常識があるか、無いかということあります。

社会常識のない人と付き合っていては、自分の成長はありませんよ・・・と自戒を促された文面であります。

 

小学を学ぶ

 『「儀礼」の士相見礼篇にいう。人と話をするには、相手の人の本務とすべき道に関して語るのをよしとする。すなわち人君と語るには、臣下を使う道、その辛苦などについて話し、大夫などの大人に対しては、君に事える心得、経験などにつき語り、老人に対しては、子弟はいかに使うべきかの問題を、その子弟たる幼者に対しては、その父兄に孝弟を尽くす道について語る。又一般の人々と語るときには、社会生活の原則たる忠、すなわち自己の心を尽くして人のために謀ること、信、すなわち人との約束を違えないこと、慈、すなわち人に対して温情をもつこと、祥、すなわち鬼神から福をうくべき善行などについて語り、官職についているものに対しては、とくに官として忠と信とを忘れない心得について語るべきである。』
 

 

 『「曲礼篇」に人と会食するときの注意として次のようにある。人と一つの器から食するときには、自分が十分満足するまで食べない。一つの器の飯を食するときには、手をもんだり、こすったりしない。飯を手でまるめない。食べのこしの飯を元に器中にもどさない。汁物を大口にすすりこまない。口中で舌うちの音をさせながら食べない。骨付きの肉を食べるときは骨までかじらない。食べのこしの魚や肉を器の中にもどさない。骨を犬に投げ与えない。よろず独り占めにしようとしたり、先に取ろうとしたりしない。飯の熱いとき、熱気を冷やすためにこれをもち上げない。黍(キビ)は匙(サジ)で食べ、箸を用いてはならない。飯には羹(アツモノ)がつく。羹の中に菜がはいっていないときは、すすりこむが、菜があるときにはよく噛んで食べる。菜を噛まずに汁だけをすすりこんではいけない。出された羹の味が口に合わなくても、調味料を加えてはいけない。歯についたものを取り去ろうと歯をつついてはいけない。醢(シオカラ)をすすってはいけない。
  

随筆

10月12日(日)滋賀県の信楽町で商工会が主催する「しがらき陶器まつり」が催されていたので行ってみた。十年ぐらい前には陶器を物色によく陶器の町信楽に行ったものであるが、その頃は、奈良経由で山越えをして信楽に着くには二時間をかけて行ったことを想い出す。

しかし、今年の2月23日に新名神高速道路が開通し、名神高速道路の草津JCTから東名阪自動車道の亀山JCTに通じた。その中間に信楽インターがある。ここで下車すると信楽の陶器の中心まで10分もあれば着く。大阪からでも一時間もあれば行けるので便利になった。

この陶器まつりに出品している知人がいるので行くことにしたのである。村上さんという女性で十年前には、デザインやキャラクターを作成していたのだが、ある日突然、信楽に弟子入りして陶器を学ぶと言い出して信楽に行ってしまった。

その村上さんが十月の初めに当所を訪れた。その折に彼女が焼いたという陶器を頂き、話によると独立して「羅工房」を開設するということであり、そうした理由もあって、お祝いをかねて出店している「羅工房」を訪れたのである。

この日は彼女の作品が並べられて販売されていた。作品には小鉢物的な小さな陶器が多く、大きな陶器は作成していないようであった。少し買い求めてが、彼女は気づかいをして値引きをするといいだした。「そんなことは、いいよ、いいよ」、「いえ、いえ、遠いところを来て頂いたから」と押し問答して結局値引きしてもらうことになった。それからしばらくは、他店の陶器を楽しみながら数時間を過ごして帰路についた。

菜根譚

菜根譚(194引用)

『大事業をなし遂げる人というのは、多くは虚心で円滑な人である。(これに反し)事業に失敗し機会を失うような人は、必ずかた意地で執念深い人である。』

 

「成功する人柄とは」  解説:脇屋 

虚心円滑というのは、「あっさりしてくったくがない」ということである。しかし「あっさり」したくてもできない人が多い。その原因は、解決していない問題を多く抱えている場合が多い。

だから、何事も分相応以上の問題を抱え込んではいけない。今日のことは、今日中に始末できる範囲内で取組むことである。

「虚心」とは「何時も心が空である」ということであるから、言い換えれば、何時も心に余裕があるということでなければならない。

 

育成

『教育とは人間性を育てること』

教育とは、「教え育てる」という意味であります。ただ「叱る」「怒る」だけでは子供は成長いたしません。

毎日、子供とどのように接しているでしょうか?、考えて見てください。「ダメだ」という前に「何故ダメなのか」を教えているだろうか、を考えなくてはなりません。

十五歳を過ぎてから悪いことをするようになるのは、十五歳までに「これはしてはいけないこと」を十分に確りと教えていないからであります。

子供を育てるには、十五歳までに悪いことは些細なことでも見逃さないように、口うるさく叩き込まなければなりません。それが教育であります。

 

心がけ

『成功は時流を読む実力が必要』

人生も事業も「努力しておれば何とかなる」というものではない。仏法の教えに「教・機・時・国・教法流布の前後」という教えがありますが、この教えを今の社会的に照らして考えてみましょう。

物事を社会の中に広くゆきわたらせるには、それなりの条件が整わないと、成長とか成功はないということをこの教えの中で学ぶことができます。

その条件とは、先ず「教」すなわち法律、規律、教育システム、製造方法など、その他宇宙に存在するあらゆる創造原理のことであります。

次の「機」は時代のことであり「21世紀にはー」とうことです。具体的にいえば、その時代の風俗などの衣また衣・食・住など、時代に相応した文化文明の伸展とともに変化し続ける環境のことであります。

第三番目の「時」は時期のことで、四季のように春に種を蒔けば秋には必ず収穫ができるといったように、物ごとが間違いなく成り立たせるには、それぞれに適合している「行動タイミング」の「時」が大事になります。

国というのは、「場所」のことをいいます。世界各国の文明文化が違い、また、国々によって人々の思考や行動も違います。このように、日本の中であっても北と南の「場所」では、生活様式や言葉にもかなりの違いがあります。また都道府県でもその「場所」によって物事の決まりをが異なっています。

この四つは「創造システムの構築」「環境の変化分析」「行動タイミングの把握」「実行場所の正確性」と言い変えることができます。五つ目に「教法流布の前後」と締め括られているのは、事を起こすときは物事の前後をよく観察せよと戒められている言葉です。

 

だから物事を進めるときは、必ず、昨日・今日・明日と、今日を起点とし、その前後に間違いないか、よく確認することが大事です。創造・環境・行動・場所のそれぞれについても、三回以上は見直してみることも大事なことです。

世の中の人々が、成功しようと思って失敗するのは、教・機・時・国・教法流布の前後、この五原則を無視しているからに外ありません。

 

養生の戒め

貝原益軒【養生訓】

『だんごより飯の多食は不可』

飯はよくひとを養うけれども、同時によくひとを害するものである。だから飯はとくに多食してはいけない。つねに適量の分量をさだめておかなければならない。

飯を多く食べると、脾胃をいため、元気をふさいでしまう。ほかのものを食べすぎるよりも、飯の過食は消化しにくくて大害になる。

他家を訪問して、そこの主人がせっかくととのえてくれたご馳走に箸をおろさないと、主人の誠意を無視するようで心苦しく思うならば、飯を普通時の半分にし、副食物を少しずつ食べるのがよい。こうすれば、副食がやや多くても調和がとれて食物にいためられない。

飯をいつものように食べて、また魚鳥などの副食物を多く食べると、かならず身体に障る。飯のあとに、茶菓子といって餅や餌などを食べ、後段(二の膳)として麺類など食べると、満腹して気をふさぎ、食物のために身体をいためる。

これは日頃の分量をすぎたからである。茶菓子や二の膳はいわゆる予定外の食物であるから、少し食べればよい。度をすごしてはならない。もし食後に少し食べようと思ったならば、あらかじめ飯をへらしておくことだ。

 

『口腹の欲をおさえる』 

飲食のことばかりいうひとはいやしまれる。孟子もいうように、小さいものを養って、大きいものを忘れるためである。と、すなわち口腹の欲にひかれて道理を忘れ、ただ飲み食って満腹することばかりをのぞんで、ついには腹がはって痛み、病気になる。また酒に酔って酒乱になるのはもっともいやしむべきことである。

 

『適量を守る 』

好物に出あったとき、また空腹時に美味な珍しいものに出あった時にも、品多く目の前にならべられても、適量をすごさないように自制して度をこさないよう心がけなければならない。
 

 

小学を学ぶ

本文:『曲礼篇にいう。人は目のつけ所が大切である。相手に対する目のつけどころによって、その人の心中がわかるからである。およそ視線が対手の顔面より上にあるときは、その人が傲慢の念を抱いているのであり、帯より下にあれば、心に憂いを抱くことを示す。頭を傾け視線を左右にするようなのは心の正しくないことをあらわす』

 

脇屋解説

「目を見ればその人の心が分る」といわれるように、毎日の生活の中で、お互いにそんな経験は幾度もあると思います。例えば、子供が親から叱られるとき、都合が悪くなると、子供は親の目をそらし下を向きます。「頭を上げてしっかりお母さんの目を見なさい」などといって、人との接し方を教えます。

本文にあるように、「相手に対する目のつけどころによってその人の心中がわかる」また、「視線を左右にするようなのは心が正しくないこと」なと動作を具体的にあげられています。子供の育成、社会での人々との接し方など、心して行動しなければなりません。

本文:『儀礼』の士相見礼篇にいう。人と話をするには、相手の人の本務とすべき道に関して語るのをよしとする。すなわち人君と語るには、臣下を使う道、その苦辛などについて話し、丈夫などの大人に対しては、君に事える心得、経験などにつき語り、老人に対しては、子弟にはいかに使うべきかの問題を、その子弟たる幼者に対しては、その父兄に孝弟を尽くす道について語る。また、一般の人と語るときには、社会生活の原則たる忠、すなわち自己の心を尽くして人のために謀ること、信、すなわち人との約束を違えないこと、慈、すなわち人に対して温情をもつこと、祥、すなわち鬼神から福をうくべき善行などについて語り、官職についているものに対しては忠と信を忘れない心得について語るべきである。』 

 

この文は人と話合いをするときは、相手と自分の立場を理解して、話の範囲や話の筋道を間違えないようにして、お互いの話が成立するように、それぞれの立場の話し方の道を諭された文面です。

 

 

人間学

『恩に報いることを心得れば、何事も思うままになる』 (二宮尊徳翁の訓えより)

師はこういわれた。『孝経』に、「孝弟の極に達すると、鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、感化を受けないところはない。東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」とある。この語の解釈をある世俗的な儒者がなした説は、何のこととも理解しがたい。今、わかりやすく説明すればこういうことである。

そもそも孝とは、親の恩に報いる勤めであり、弟とは兄の恩に報いる勤めである。すべて世の中は、恩に報いなければならない道理をよくわきまえれば、何事も心のままになるものである。恩に報いるというのは、借りた物は礼を述べて利息を添えて返し、世話になった人にはよく感謝をあらわして、買い物の代金はすみやかに払い、日雇い賃は日々払うということである。

すべて恩を受けたことをよく考えて、よく報いるときには、世界の物は、実にわが物と同じく、何事も欲するとおり、思うとおりになる。ここにいたって、「鬼神にも通じ、その徳は世界中に輝き、東西南北の民がみな信頼してつきしたがう」となるのである。ところがある歌に、

“三度たく飯さえこわしやわらかし 思うままにはならぬ世の中”

とある。これは全く違っている。これは勤めることも知らず、働くこともせず、人の飯をもらって食う者が詠んだに違いない。そもそも世の中は前にも述べたように、恩に報いることをよく心得れば、何事も思うようになるものである。それなのに思うようにならないというのは、代金を払わないで品物を求め、種を蒔かずに米を収穫しょうと願うからだ。この歌の初句を「おのがたく」と直して、自分自身のことにすればよかろうか。

 

随筆

例年のように理髪店の前にある土地に遅咲きの朝顔の苗が植えられた。いつもながら、この朝顔は本当に咲くのかなーと思っていたら九月過ぎから次から次と咲き出すといった変りものの朝顔である。

私が思っているのは、一般的に朝顔が咲くのは八月という思いが子供の時から強いから、九月から咲くのは……と想っているからである。この写真は七月の初に撮ったもので今はこの十倍ぐらいに枝葉が茂り上段の紐に絡みついて横に長く延びている。

ここのところ梅雨も上がり、毎日の気温が33度から35度とうだるような暑さである。子供たちも二十日から夏休みに入り海を楽しむ季節になったが、昨日は悲しいことに13人の子供たちが池や海で亡くなったニュースが流れた。将来のある子供たちを大人は確りと管理責任があることを忘れてはならない。

朝顔もこの灼熱の太陽の光を恵みに変えて、これから毎日少しづつ成長を遂げてゆくのである。毎朝、この朝顔と「おはよう」と挨拶を交わしながら今朝はここまで延びたね…と思うとつい笑みがこぼれる思いである。そんなことを思っているのは私だけではない、通りすがりの人が立ち止って見ている人がいる。きっと、私と同じようなことを考えているに違いないと思うと、また、フフと笑わずにはいられない気がする。

朝顔の成長をもっと気にしている人がいる。その人は理髪店のオーナーとスタッフである。ジョウロに水を入れて朝顔に毎朝水を与えている姿を見るからだ。彼女達はどんなに花の咲く日を待っていることであろう。丁度、恋人を待つように…。