「人間情報」カテゴリーアーカイブ

育成

「思いやり…」

「思いやり」とは、相手の立場に立って考えることが出来る吸収力です。

思いやりのある人というのは、その人の傍にいるだけでも安心感があり温かさを感じます。 「思いやり」は同情心と趣がちがいます。妻であれば、夫の立場で考え、夫は妻の立場で物事を考えることです。

したがって、子供を育てるには、親が子供の立場に立って考えるしかないのです。子供は親の立場に立つことは出来ないからです。

思いやりのある親に育てられた子供は思いやりのある人間として成長していきます。しかし、甘えと思いやりを間違えてはならなりません。
  

菜根譚

(中国古典・菜 根 譚193)

『山が高くて険しい場所には草木は生えないが、しかし谷川のめぐる低い所には、草木がむらがり生えている。水の流れの激しい場所には魚類は住みつかないが、しかし水のよどむ深みには、魚類が多く集まっている。これを見ても、孤高の行いや、度量の狭い性急な気持ちは、君子として深く戒めておくがよい。』

 

解説:脇屋

今日実行したことの結果は、三日後か、七日後、或いは十日後にその事象が現れることになる。その事実を確りと見届けなければいけない。もし見逃すようなことがあれば、何時までたっても先を見抜くことは出来ないだろう。

また、十日後に現れた事象は、即座に処理しなけばならないが、それまでの事は性急に解決を急ぐと反目になることが多いから注意しなければならない。

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「運命は自分でつくる」

人それぞれに運命は一応定められている。…というのは生れたときのことであります。例えば、生れながらにして○○社長の息子である。…このことは誰も取って変わることが出来ない事実であり、このことを宿命的運命というのであります。

しかし、この宿命的運命は安定したものではありません。息子が成長するまでに会社が倒産することもあり、
大きな借財を残して社長が死ぬこともあります。だから宿命的運命は将来の幸せをを約束されたものではありません。

最近、中央区に五百坪程の土地を整地して十二月からマンションの建築が始まろうとしている場所があります。聞くところによると、資産家の息子が受け継いだ資産だといいます。これが宿命的運命であります。しかし、この宿命的運命を覆すことがあります。

それは後天的運命であります。後天的運命とは、自分自身で作る運命のことであります。「運」とは、運送ということで、いわゆる物を運ぶ意味があります。したがって、運ぶとは、動いてる状態、すなわち、努力している行動体を表わしているのが『運』ということであります。したがって、運命を自分で作るには「運」すなわち自分自身の努力の如何によって運命が変化することになります。

「善因善果、悪因悪果」という言葉があります。努力して人々に喜んでもらえるような善い種を蒔けば、運命はよい方向に進んで行きますが、悪い種を蒔くと運命は悪い道に入ってしまいます。そういうことが哲理であります。

しかし、世の中は厳しいものですから、善い考え方をしたからといっても、直ぐにその結果が出るわけではなく、一年後かまたは三年後かも分りません。悪い考え方で行動しても同じことが言えます。直ぐに結果がわかれば誰だって努力を惜しまないと思います。

でも、直ぐにその結果が出ないから「因果応報」だ、なんていわれても、「はい、そうですか」とは素直に受け止めにくいことであります。しかし、現実には、後になって「ああしておけばよかった」とか、「もっと努力しておくべきであった」ということはよくありがちです。だから、そのようなことのないように、過ぎた日に悔いることのないように、日々努力を重ねなければ、よい運命には出会わない。

 

 

育成

 自分の意見をはっきり言える子供に育てることは大事なことです。

三歳を過ぎて、小学校に行くまでは友達をつくり遊ぶようになります。子供同士が夢中になって遊んでいる子供は、自分の意見をはっきり言える自主性や人への思いやりなどが順調に育つといわれています。

こうした意味で保育園や幼稚園時代の友達関係が、人としての人格の基盤をつくる大切な時期にあたります。この期間に培う、自主性や思いやりが、小学、中学、高校へと、生涯にわたっての大きな力になることを知らなければなりません。

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(日本電産社長)

「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」この言葉は最近テレビ対談に永守重信氏(日本電産社長)が出てこられたときに聞いたのですが、「すぐやる」というようなこと当たりまえのことで、誰もがよく分っていることであります。 

しかし、言葉としては「すぐ」「必ず」「出来るまで」の三つが一つにつながっていることは、達成感があり言葉が活き活きしていると思います。 「何をしてるのか、言われたことは、すぐにやれよ」といいたくなることは、多くの人が今までに、何度も体験していることでしょう。

だが、「すぐやれ」といってるのに、すぐにやらないというこには、聞く側だけでなく、指示する側にも何等かの原因があるのだろうと思います。「すぐやれよ」「必ずやれよ」「出来るまでやるんだぞ」さらに「君なら必ずやれる」とつけ加えれば、夢があり更に楽しい言葉と決断を強く促すようになります。

このように考えると、言葉は生きものでありますから大事なことは、言葉には、物事の内容が具体的であること、言葉に魅力的な力があること、言葉に愛情や思いやりが感じられること、言葉に違和感がなく素直になれる雰囲気があること。などがあげられます。

私はいつも「今が大事」ということを座右の銘にして歩んでいます。また、人々にも「今が大事である」ことを強く言ってまいりました。「今のことが出来なくて次に何があるのか」と思うからであります。

「すぐやる」「必ずやる」「出来るまでやる」という言葉を聞いて、私は「今が大事」と人に伝えるときに、この言葉をつけ加えることを忘れていたように感じています。「今が大事」と言っているのに、なぜ、すぐにやらないのか、それは「必ずやる」「出来るまでやる」という力の入った具体的な言葉が不足していたように思っています。「出来るまでやる」とは、誰もがいう言葉です。しかし、「必ずやる」という大事な中間の言葉が省かれている場合が多いような気がします。今月はこの言葉「必ずやる」を提言いたします。

 

人間学

■人間学(二宮尊徳翁の訓えより)

『師はこういわれた。某藩の某氏が家老職にあったとき、私は礼譲・謙遜を勧めたが用いられなかった。
 
しばらくしてその職をやめさせられた。今や困窮はなはだしく、日々をしのぎかねている。某氏は、某藩の衰廃・危難のときに功績があった人だが、今日のように窮貧している。
 
これは登用されたときに、ただただ自分の分限を心得なかった過ちによる。
 
そもそも官威が盛んで富裕が思いのままになるときには、礼譲・謙遜を尽くし、官職を退いてのちは遊楽・驕奢に暮らしても害はない。
 
そういうときは少しの謗りもなく、人はその官職をねたまない。その官職に進んだときに勤苦し、退いてのち遊楽するのは、昼はに勤めて夜は休息するようなものである。
 
出世したときに富裕にまかせて遊楽・驕奢にふけり、退いて節約を守るのは、あたかも昼に休息し夜に勤苦するようなものである。

出世したときに遊楽すれば、誰もが羨み、ねたむ。雲助が思い荷を背負うのは、酒食をほしいままにするためである。
 
遊楽・驕奢をなさんがために国の重職にいる者は、雲助とさほど変わらない。重職にいる者が雲助と同じことをするならば、どうして永い平安を保てようか。退けられたのは当然で、同情するに当たらない。』 

小学を読む

小学(敬身第三)
『門を出て外部の人と交わるには、大切な賓客に会うときのような敬をもち、人民を使うには大事な祭祀につかえまつるときのように気をつける。自分にされたくないことは、人にもそれを行わないようにするのが大切なことである。』

脇屋所感
外部の人と接するときの心構えを教えられています。

身近な人々と交際するときは、自分にとって最も大切な人との接待のように慎んで敬意を表わさねばならない。

さらに、多くの人々との交わりには公の事を取り扱うように気をつけることである。 また、人とつき合う中で、自分が人からされたくない行為は、人にしてはならない。このことは大切なことである。と教えられた文面です。

※注釈: 敬をもち
敬とは物を大切にすることであって、威儀を正したりすることではない。相手に対して細心の注意をはらいながら失礼なことがないかと心がけることを敬というのである。
    
『居処恭しく、事を執りて敬し、人の與に忠なるは、夷狄に之くと雖も、棄つ可からず。』
(きょしょうやうやしく、ことをとりてけいし、ひとのためにちゅうなるは、いてきにゆくといえども、すつべからず。)読み方

※注釈:
居処恭しく=いつも楽しく住んでいる所での生活は礼儀正しく丁重でなければならない
事を執り=何ごとか実務を行うこと
人のために忠=人と交わるときは真心をもって尽くし行動する
夷狄にゆく=知らない未開の土地に行く
棄つ可からず=すてないで守らねばならない 

どこで生活するにしても、恭・敬・忠の三つの精神を忘れてはならないと指摘しています。いつも生活している近隣の人々に対しては、礼儀を欠かないようにう恭しく交際することである。
  
何ごとでも、計画をして行動をするときは、細心の注意をはらって相手に迷惑が及ばないように謹みの心(敬)をもっていなければならない。
 
また、人と接するときは、どんな場合であっても、言行に嘘偽りのないようにし、真心(忠)をもって接しなければならない。
 
このように人としての毎日の生活での心構えを、恭・敬・忠の三つに要約して教えられています。

随筆

海水の入った桶を天秤棒の両方にかけ、肩で担って塩田に備え付けられた大きな桶に注ぐ、この作業を何回も繰り返して桶に海水を満たす。
  
写真は、溜めおいた海水をそれ用の卵型のような桶で汲んで塩田に散水している風景を前田氏が撮影したものである。
  
説明書によると『「揚げ浜式製塩法」といって塩田に桶で運んだ海水をまき、塩分を含んだ砂を集めて、箱の中に入れます。その上から海水を流しこみ、濃い海水を取り出し、釜で炊き煮詰めて塩をとる製塩技術です。

この作業は大変な重労働で、まさに手塩にかける〝塩〟の語源もこれより発生したものと思われますとあります。
 
ここ能登半島での「揚げ浜塩田」の製法による塩作りの歴史は古く、八世紀頃より行われていたと伝えられています。現在でも、ここ珠洲市の仁江清水海岸では今も行われていて、日本では唯一の先の製法によって塩作りが続けられています。
 
そうした説明書を読みながら、目の当たりにする塩田風景の原始的な作業が、今も残っていることに感動を憶えた。

その隣には作業場や資料館があり塩を焚く釜土が据えられていたり、作業を体験することができる塩田も設置されていて、この日も体験をしている人たちがいた。
 
ここを出て海岸通りを走ると「千枚田ポケットパーク」という所があり車をとめた。案内板を見ると「奥能登の最高峰である高州山の裾野に沿って、海岸沿いに小さな水田が階段状に無数に広がる。その数二千を超える」と案内があります。
 
一枚あたりの平均面積は畳約三枚分と驚くほど小さいのが特徴で、田植えのときは機械などが使えないために、田植え作業はすべて手作業という。

この高台から海岸に広がる「白米千枚田」は今実りの最中であるが、九月に入れば金色のように稲穂が垂れ下がる。と、風景を思い浮かべた。

菜根譚

菜根譚(183)

「おのれの心を欺かない、人の情けに頼らない、物をみだりに費やさない。この三つを守ることで天地のためにはその心にかない、万民のためにはその生活を安定し、子孫のためには福を作り出しておくことができる。」 

 

守ること(脇屋所感)

一、欺かないとは、約束を守ることである。

二、頼らないとは、むやみに人をあてにしないことである。

三、費やさないとは、物事は八部で止めるて二部は残しておくことである。

この三か条を常にしっかり守っていれば天地自然の道理に反することがないのでお互いに争いが起こることもない。

また、ムリがないので自然と生活の安定につながっていく。このようにして、よい習慣を代々に伝えていけば、自然と後継者たちも、また、善いことが遺せることになる。