商いの道は、金銀を以って物を買いとり、利倍をかけて売ることのみをいうにあらず。
天下の財物を通じ、国家の用を達するを、真の商人というなり。
末代の町人、手黒を以って人の目をくらまし、すめ買い(買占め)しめ売り(売り惜しみ)の類、これみな天下の毒蛇なり。
もし幸いありて富を得たりというとも、浮める夢のごとくにて、久しかるべからず。
謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰あらん。
(町人曩より)
商いの道は、金銀を以って物を買いとり、利倍をかけて売ることのみをいうにあらず。
天下の財物を通じ、国家の用を達するを、真の商人というなり。
末代の町人、手黒を以って人の目をくらまし、すめ買い(買占め)しめ売り(売り惜しみ)の類、これみな天下の毒蛇なり。
もし幸いありて富を得たりというとも、浮める夢のごとくにて、久しかるべからず。
謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰あらん。
(町人曩より)
「苦労は分け合えても、利益は分け合えない」と昔から言われ、戒められています。
何故かといえば、欲望は人それぞれに違うところに問題があります。
それは、二人で事業を起こしたとします。苦労段階では目的が一つですから、二人は苦労を喜びとして努力します。
しかし、利益が発生しだすと、能力を比較したり、利益の用途や、運営の方法で意見の対立ができるのが決まり文句のようです。
だから、こんな場合、はじめから二人の立場を明確に文書化しておくことが、将来のためになります。
「金は通用して強く働くが故に出たがるものなり。用心して出さぬがよし。人も強く働くときは、少し休息せねば堪られぬものなり。金も折には休ませて遣うがよし。無理に遣えば病気づくものなり。よくよく念を入れて考えるし」
(商人生業鑑より)
金儲けほど仕悪しきことはなく、損ほど仕易きことはなし、併し大損は大抵の苦労ではなし人間は賢きやうにて、至って愚かなるところあり。僅の日合に迷ひて、大分の元金取られ、僅の利を取らんとて代物を持運び、骨折辛労しても懸金滞り、五十匁百匁の売懸の滞りにて大きな声を出し、顔赤めて掴み合う人多し。金に詰まりて死ぬものは、やうやう銭五貫か十貫か、大金はなきものなり。五十貫、百貫の損する人は死ぬこともなく、高声に言い合わぬものなり。何百貫、何千貫という損には、袴をつけ結構な酒宴をしつつ損するなり。
(『商人生業鑑』)
倹約と吝嗇とは、心入り二筋に分かれたり、わきまえ知るべきなり。
先ず倹約とは、身に美服を飾らず、口に旨食を好まず、身を勤め、家を治め人に不実をせず世間の義理を欠かぬをいうなり。
吝嗇とは、わが身のために金銭を貪り、人のそしりを顧みず、ひたすら宝を積み、一家親族にも無心がましき人へは往来せず、施しの心なきをいうなり。
この二つは似たるようにして大分の違いあり。
淮南子『詮言訓』に「事業は衆民と共同でなされるもので、功績は時勢とともに完遂するものである」とありますが、事業というものは一人で成り立つものではなく、色々な専門的技術をもった人たちが寄り集まって成り立っています。また、功績、即ち利益というものも、その時代の時勢や時流に順応して得られるものであって、自分ひとりの力ではないことを厳に認識しなければならない。
そもそも商い[事業]での「利益」というものは、本道の副産物であって一元的なものではありません。利益とは「他を益することによって、己を利する」という意味であります。大丸百貨店の初代が残された訓戒のなかに「先ずお客さんに喜んでもらうことによって、その後に利益がついてくる」といった文を読んだ記憶がありますが、それが「利益」という本筋であります。
利益に対する精神が間違っていると、一時的には儲かったように思っていても、どこかで必ず大きな損失に遭ったり、失敗したり、破滅に向かっていくのが必然的な原則であります。過去において、倒産した多くの会社や商店は、経営に対する利益概念が間違っていたからの結末といわなければなりません。
淮南子『兵略訓』に
「明王が兵を用いるのは、それが天下人民のために害悪を取り除き、万民と共同してそれぞれ利益を享受するためのものであるから、人民の用(はたら)きたるやあたかも息子が父のためにまた弟が兄のためにするほどの[自発的]ものだ。その威力の加わった勢いは、山をも崩し堤防をも決壊させるようなもので、いかなる敵も立ち向かえない。」とある。
この言葉から引用すると、事業というものは、共同してそれぞれの利益を受けることができるから、社員は自発的に行動するのである。そうした組織の勢いというものは如何なることにも立ち向かう力をもっているものである。ということである。
だから、利益は、相互扶助の精神と、社会貢献の精神と、適正利潤の算出を忘れてはなりません。
トップの力量
物事が上手くいくか、いかないかは、トップの力量にかかっています。トップが、事業に対する本質と方法論[道理]と正しい行動を正確に弁えていないと、事業はいつも不安な状態になります。
最近あった事例ですが、結論からいいますと、依頼した商品が出来上がってきたら、注文内容と異なった商品が送られてきたというものです。
担当者は「正しい資料送っておいたのに」という。相手の担当者はそうは思っていなかったので、その資料があると混雑するので「捨てた」という。「なぜ捨てた」と聞くと、前にOKという資料をもらっていたからという。そのOKの資料に訂正箇所があったから再度送ったという。こうしたことはあってはならないことであります。しかし結局は、出来た製品を破棄して、新しく造ることになった。双方にとって大きな損失である。
こうした間違いが常に起これば会社は倒れてしまいます。また、こうした一つの問題が会社の将来性を予測できるといっても言い過ぎではないでしょう。
こうしたときは、トップは速やかに業務の工程・チェック機能の改善をしなければなりません。こんなとき「これからは気をつけて」だけで終わっては、大変なことが次に起こることになります。天をあまく観てはいけない。つまらないトップの力量には、天は力を貸さないことになるものです。よくよく心しなければいけない。
この事例を見てもわかるように、結局は担当者でなくて、会社が損害を受けることになります。それはトップの責任問題であります。何事も成否のかぎはトップの一身にかかっています。その責任を逃れることはできません。
例えば、木材を切るときに、棟梁が墨で線引きをします。切りおとす人は、その線に従って切ることで目的はかなえられ建築の材料となり役立ちます。しかし、線引きが間違っていると、その木材は廃材となってしまいます。
このように、正しいトップの元では役に立つ人材が育ちますが、力量のないトップの下では、まともな人材は育たないことになります。
事業を成功に導くには、先ず、トップとしての力量を毎日弛むことなく向上させていくことが大事です。もし、部下が進歩しないと思ったときは、トップが進歩していないことに気づかなければ、事業の伸展はないものと考えて間違いありません。
「技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。才の大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一(ととのう)であって、逸脱は起こりえぬ。聖人はこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。」とあります。
このように世の中には不要な人材などはいないのであって、人材を見抜けないのはトップの力量がないからである。と戒められています。管理者はこれぐらいの力量をもって事業はしなければ発展しません。「相手がダメだから」と、いつも責任を回避しているようでは管理職は失格です。
商いの意味を広辞苑でみると、「あき」は秋で、農民の間で収穫物・織物などを交換する商業が秋に行われたから、そのことを「商」、即ち、「あきない」といったようです。今でいう「商売」であります。
商いの始まりは、物々交換から始まり、やがては品物を仕入れて、それを売ることで生活をする。これが商いの目的としてはじまりました。ところが、時代の進化と共に、人を雇い入れるようになり主従との雇用関係ができるようになりました。そこには、雇用者の生活費の確保という重大な責任が生じます。したがって、そのためには計画を立て利益の追求の目標を立てて進める必要に迫られました。これがいわゆる「事業」の起こりであります。
「事業」とは、「事」は事実という意味で、目で見てわかる現実のことです。「業」とは、わざ、なりわい[生業]ということ、即ち、複数の人々を一同に集めて、リーダーはそれぞれの技術者を駆使して物を生産して社会に貢献するということが「事業」であります。
そこで「商売」と「事業」の相違を考えてみますと、商売は適正利益の追求が目的であるのに対して、事業とは、雇用関係が成立するので、人を育てるという責任があるということです。だから、事業の利益というものは、人が育った内容と比例して与えられるものであります。
言葉をかえると、事業は社会貢献度によってその組織に利益が還元され与えられるものです。こうした事業本来の道理に適合しないと、一時的には良く見えている事業でも、将来性の期待はもてないことになるでしょう。
これが事業の本質であります。したがって事業を志すものは、内には筋の通った商売根性を秘め、雇用責任を果たし、事業の本質の道理を修得して、よく社会に貢献する精神をもって事業の遂行を果たさなければなりません。
淮南子『主術訓』に
「技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。才の大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一(ととのう)であって、逸脱は起こりえぬ。聖人はこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。」とあります。
「何事も、成否のかぎは君主の一身にかかっている。上の墨縄が正しく引かれればこそ、下の木が真直ぐに仕上がる。縄は何もしないが、よりどころを得た木の方がかくなるのである。さてこそ、正しい人主の下では、直行の士が事に任じ、姦佞(かんねい・心がまがってわる賢い)の徒は影をひそめる。不正なる人主のもとでは、邪の輩が志を遂げ、誠あるものは隠遁する。」とあります。
商い、事業というものは、結果的にはトップの人間性と経営能力にあるのであって、交渉力や経済力ではないことを、厳に肝の命じ経営能力の修得に努めなければならない。